Passau

( パッサウ )

パッサウPassau)は、ドイツ南東部、バイエルン州の都市である。ミュンヘンから電車で2時間強、オーストリア、チェコとの国境に接する。

ドナウ川(Donau)、イン川(Inn)、イルツ川(Ilz)の3つの河川がこの地で合流することから、「ドライフリュッセシュタット(Dreiflüssestadt:3河川の街)」の異名を取る。

パッサウは、プトレマイオスの『地理学』(130年頃)に、イン川とドナウ川の間のケルト人集落名“Boiodurum“として現れている。これは、「ボヘミアに居住していた人々の町」を意味し、1世紀から3世紀までイン川の南側の岸辺にあったローマ軍増援部隊の要塞を表すようになる。2世紀半ばには両河川の間の丘の上に別の要塞が築かれ、この要塞は、駐屯したローマ軍支援部隊のバターヴァー族(ゲルマン民族の一部族で、今日のオランダ・ヘルダーラント州のベートゥヴェ“Betuwe“地方を故郷とする)の名に因んでバターヴィス(“Batavis“)と名付けられる。パッサウという地名はここから来ている。二つの要塞の間に人々が居住するが、5世紀にローマ軍が撤退すると集落も消滅する[1]。

453年ノリクムのセヴェリヌス(Severinus de Noricum; -482)がイン川の向こうに修道院を創設する[2]。7世紀にバイエルン大公荘館(bayerischer Herzogshof)が置かれるが、その後カロリング家国王荘館(karolingischer Königsshof)も置かれる。739年、「ドイツ人の使徒」と言われる ボニファティウスはバイエルン大公オデローの支持を得て「バイエルンで、ザルツブルク、パッサウ、フライジング、レーゲンスブルクの四司教座を設置して教会組織を確立した」[3]。レーゲンスブルクは伝道地域がモラヴィアやハンガリーにまで拡大する司教座の地になる。中世のパッサウは司教、バイエルン公、王権という3権力の間の協力と対立の中にあった[4]。

999年 神聖ローマ皇帝 オットー3世が司教クリスチアン(Christian)に市場開設権、造幣権、関税権等の市に関わる権利を与えた。 1161年 司教コンラート(Konrad; 1148-64)は、神聖ローマ皇帝 ハインリヒ2世の寄進により豊かになったニーデルンブルク修道院(Kloster Niedernburg)を獲得し、1193年には、修道院の守護権(Vogtei)が司教ヴォルフゲル(Wolfger; 1191-1204)の手に移っている[5]。

13世紀以降、都市住民が徐々に共同体を発展させていき、1298年、1367年、1394年に、都市君主としの司教に反抗を繰り返し、1368年には市参事会の設置が認められたが、市民側の得た自治の権利は継続的なものとはならなかった。1300年頃の市の人口は約2500人、1500年頃は4000人であった[6]。

中世末期には刃物鍛冶、革なめし工等数多くのツンフトが結成され手工業が栄え、商業では、穀物とワイン、とりわけ塩の取引が重要であった。塩はボヘミア、レーゲンスブルクにまで送られ、遅くとも15世紀にはパッサウの商人がレーゲンスブルクまでのドナウ川での塩取引を独占していた。社会福祉の面では、452年には既に救貧院が存在したとの記録が存在する。12世紀以降、巡礼者と病者のための施設が多数設立された[7]。

1468年/1469年にウィーン、1783年にリンツ、1784年/1785年にザンクト・ペルテン(Sankt Pölten)の各司教区が分離独立したためにパッサウ司教区は縮小した。もっとも、これとともに同司教区は798年以来その管轄下にあったザルツブルク大司教区からの免属(Exemption)を果たした。1803年以降パッサウはバイエルンに帰属した。パッサウ司教区は1817年/1821年にミュンヘン・フライジング大司教区の管轄下に組み入れられた[8]。

第2次世界大戦中、医師にして小説家・詩人の ハンス・カロッサは「ヨーロッパ著作家連盟」の会長を引き受けたが、「古都パッサウを、生命を賭して空襲から守(り)」、戦後「パッサウ市の名誉市民に推され(た)」[9]。

^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 1756. - Dieter Berger: de:Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern, Bibliographisches Institut, Mannheim/Wien/Zürich 1993 (ISBN 3-411-06251-7), S. 209-210 und 49. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 1806. - Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 473. ^ 今野国男『修道院』(「世界史研究叢書」⑦)近藤出版社 1971年、125頁。 ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 1756-1757. - Dieter Berger: de:Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern, Bibliographisches Institut, Mannheim/Wien/Zürich 1993 (ISBN 3-411-06251-7), S. 210. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 1756-1757. - Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 473. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 1757. - Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 473. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 1757-1758. ^ Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 473. ^ 岡田朝雄「カロッサの第二次世界大戦終結前後の詩三篇」〔編集代表者 未定同人会 岡田朝雄『未定』第27号 朝日出版社 2022年10月31日、6頁〕
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