ナンマトル(Nan Madol)は、ミクロネシア連邦のポンペイ州に残る人工島群の総称であり、後述するように、その考古遺跡の規模はオセアニア最大とさえ言われる。人工島が築かれ始めたのは西暦500年頃からだが、ポンペイ島全土を支配する王朝(シャウテレウル王朝)が成立した1000年頃から建設が本格化し、盛期を迎えた1200年頃から1500年(または1600年)頃までに多数の巨石記念物が作り上げられていった。人工島は玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったもので、100以上とされる人工島は互いに水路で隔てられており、その景観は「太平洋のヴェニス」、「南海(南洋)のヴェニス」、「ミクロネシアのアンコールワット」などとも呼ばれる。

人工島の上に築かれた巨石記念物群は王や祭司者の住居のほか、墓所、儀式の場、工房など様々な役割をもっており、その大きさも様々である。巨石記念物群は数トンから数十トンにもなる玄武岩柱を積み上げたもので、どのような技術を使ったのかは解明されていない。レラ遺跡などのミクロネシア連邦の他の遺跡、さらには広くポリネシア等の遺跡との関連性についても研究が進められているが、明らかになっている点は限られる。なお、超古代文明論ではムー帝国の首都の遺跡などとされることもあるが、考古学的な検証からは否定されている。

調査・保存などについて日本を含む国際的な協力も受けて、2016年には、UNESCOの世界遺産リストに登録されたが、マングローブの繁茂などといった遺跡保存への脅威から、危機遺産リストにも登録された。

日本ではナン・マドールナン・マタールナン・マトール等、複数の表記がなされる(後述)。なお、ナンマトル及び関連する固有名詞のカナ表記は揺れが非常に大きいので、この記事では便宜的に、現地音に近いカナ表記を採用したとする片岡, 長岡 & 石村 2017の表記で統一する(ポンペイ島など、ウィキペディア日本語版上で記事が立っている一部の名詞を除く)。いくつかの固有名詞は、日本語文献における表記の揺れを注記したが、網羅的なものではない。

伝説

ナンマトルの伝説的な起源は、神[1]あるいは魔術師[2]などと位置づけられる2人の兄弟、オロシーパとオロショーパ[表記 1] (Olosihpa & Olosohpa) に帰せられている。彼ら以前にも東から来た人々によるささやかな祭壇があったと伝えられるが[3]、オロシーパ兄弟は西方の伝説の地「風下のカチャウ」(Katau Peidi / Downwind Katau)[注釈 1]からポンペイ島にやってきて、祭壇を築くために島のあちらこちらをまわった。当初は現代でいうショケース地区 (Sokehs) の沿岸に祭壇を作ったものの、波が強くて失敗し、そこに落ち着くことはなかった[4]。次いでネッチ地区 (Nett)、ウー地区 (U) とめぐったがうまくいかず[5]、最後にマトレニーム地区に落ち着くことになった[6](各地区の位置関係は上掲の地図を参照)。マトレニームが選ばれたのは、近くの海中に、精霊(祖霊を含む)の領域カーニムェイショ (Kahnimweiso) があるとされたことによる[7][8]。オロシーパとオロショーパは石を宙に浮かせてナンマトルを組み上げていき、その作業規模が大きくなるに従い、島民たちも協力するようになったという[9]。

ナンマトルの完成を待たずしてオロシーパが没すると、オロショーパは残りの工事を完成に導いた[10]。このオロショーパが初代のシャウテレウル[表記 2]と位置づけられる。「シャウテレウル」とは、ナンマトルを含む一帯の地名「テレウル」(Deleur) の主という意味である[11][8]。このオロショーパから始まる王朝はシャウテレウル朝 (Saudeleur Dynasty) と呼ばれる。

初期のシャウテレウル朝は善政を敷いていたというが、次第に苛政へと転じ[6]、最後のシャウテレウル、シャウテムォイ (Saudemwohi) の治世をもって終焉を迎えた[9][12][注釈 2]。シャウテムォイは、島の最高神に当たる雷神ナーンシャペ (Nahn Sapwe)[表記 3] を迫害し、ナーンシャペが東方の伝説の地「風上のカチャウ」(Katau Peidak / Upwind Katau) に逃れざるをえなくした。ナーンシャペはその地の女性と結婚し、女性の双眼にライム果汁を差して妊娠させたという[9][6]。そこで生まれた英雄がイショケレケル[表記 4] (Isokelekel) で、彼は333人の仲間を引き連れてナンマトルに攻め上り、数年の戦いを経てシャウテレウル朝を終わらせたとされる[13]。敗れたシャウテムォイは魚に変身して逃げたとも[14]、捕らわれて殺害されたとも言われている[15]。

イショケレケルはポンペイ島のマトレニーム地区を治めるナーンマルキとなったが、ポンペイの残りの4地区は18世紀までに別のナーンマルキが治め、現代に至っている[16]。イショケレケルは、ポンペイ全土を治めていたシャウテレウル朝を滅ぼしたにもかかわらず、島全体を統一する政権を作れなかった[16][注釈 3]。その理由については、知られている範囲の伝説からは不明である[17]。ナーンマルキらは、自身の死を前に後継者に口伝する以外には、伝説の全貌を語らない慣わしがある[17]。そのため、学者らによる伝説の収集も、伝説の全体像を解明するには至っていない[17]。

学術的検証  中央の人々と比較すると石材の大きさがわかる。

過去の発掘調査などの結果から、ナンマトル一帯に人が住むようになったのは紀元前後のことで[18]、メラネシアから移ってきたと推測されており[19][16]、ラピタ人の流れを汲むとも言われている[16]。

人工島の建設開始は西暦500年頃のことだが[18]、そのときの背景などは未解明である[20]。急拡大は西暦1000年頃からだったと考えられており[19]、それが同時にシャウテレウル朝の成立期と考えられている[16]。その頃から1200年頃が首長制の確立期で[18]、その首長制のもとでの儀式は、1200年から1300年頃に始められたと考えられている[19]。

オロシーパとオロショーパの出自が、本当にチェムェン島の外だったかどうかにも議論があり、伝説的な地カチャウと結びつけることで権威を正当化する意図があった可能性も指摘されている[8]。海上に人工島を築いた理由も、地縁などから切り離された権力の確立や、神聖性の強化を志向したのではないかと考えられている[8][21]。こうした神聖性の強調は、ナンマトルの例外性と結びつく可能性がある。オセアニアの島嶼における政治権力は、農業の集約化と結びついて発展してゆくのが一般的とされ、シャウテレウル朝も確かにパンノキの品種改良による生産力増大や人口増加を背景としていた可能性は指摘されるものの、人工島群に築かれたナンマトルそのものは農業生産力に乏しく、その権威の拠り所は農業ではなく、儀式を通じて示される非物質的な力だったと考えられるからである[22]。

ナンマトルの遺跡群を構成する石材は、サイズによって差があるが5トン(メトリックトン)から25トンほどとも言われ[23]、最も重いものでは推計90トンにもなる[24][25]。その石切り場は、遺跡から2 kmに位置するマトレニーム湾[26]、十数 km 離れたチェムェン島の反対側[24]などが挙がっており、21世紀に入ってからは、蛍光X線元素分析法を利用して産地やその変遷を特定する試みなども行われ始めている[27]。しかしながら、それらの場所から巨石をどう運んだのかについては、カヌーに吊り下げて運んだという説などがあるものの[26][28]、詳しい方法は確定しておらず、運んだ巨石を人工島で積み上げていった手法も不明である[24]。少なくとも、彼らは金属器を持たず、水準器、滑車、車輪のいずれも利用していなかったらしい[29]。

シャウテレウル朝が最盛時に支配していた人口は、25,000人ほどであったと見積もられている[30]。そのうちのエリート層や司祭者がナンマトルに居住し、それがナンマトルの主要な機能であったが[16]、前述のように人工島は農業生産力に乏しいため、食料はポンペイ島からの貢納に依存していた[8]。その貢納や、労役が過大になっていったことが、シャウテレウル朝の終焉に結びついたと推測されている[31]。シャウテレウル朝の終焉、すなわちイショケレケルの到来がいつなのかは、細かく絞り込まれてはいないが、1500年から1600年ごろ[注釈 4]のことであったと考えられており[18][19]、巨石記念物群の建設もその頃に終息している[31]。

イショケレケルが生まれ育った「風上のカチャウ」について、実在のコスラエ島とする説がある[1][32]。それに対し、「風上のカチャウ」はポンペイ島より東のあらゆる島を指す語だったとする反論もあり[注釈 5]、イショケレケルの軍勢が本当にポンペイの外から来た勢力だったかどうかすら、学術的には確定していない[33]。つまりは、オロショーパ兄弟同様、神聖化の一環で外来勢力を標榜した可能性もある[33]。

シャウテレウル朝の滅亡後も、マトレニームの初期のナーンマルキはナンマトルに居住していたらしい[34]。しかし、19世紀にヨーロッパ人が本格的に到来した頃には、居住地としては使われなくなっていた[34]。口承では、7代目のナーンマルキの時に、台風に被災したことがきっかけで居住地を移したとされ、それは18世紀初頭の頃と考えられている[35][36]。もっとも、より現実的な理由として、ナンマトルでの居住が外部からの貢納を前提とするのに対し、シャウテレウル朝と違ってポンペイ全土を支配できなかったマトレニームのナーンマルキは、生活に十分な貢納を維持できなかったとする推測もある[31]。

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