Kuršių nerija

( クルシュー砂州 )

クルシュー砂州(クルシューさす、リトアニア語: Kuršių nerija、ロシア語: Куршская коса、ドイツ語: Kurische Nehrung)は、バルト海とクルシュー潟を隔てる全長98 km の細長く湾曲した砂州である。2000年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

バルト海の神話に拠れば、クルシュー砂州は海岸で戯れていた屈強な少女ネリンガ(Neringa)によって形成された。彼女は他の神話にも現れるが、そのいくつかではさながら女性版ヘラクレスのような女傑として描き出されている。

実際には、クルシュー砂州はモレーンの島々が砂で繋がり、紀元前3000年ほど前には現在のような細長い砂州が出来上がったとされる。

西暦800年頃から1016年には、まだ発掘されていない異教的な交易中心地であったカウプ(英語版)(Kaup)の占有地であった。13世紀にはドイツ騎士団がこの地を占拠し、彼らの城をメメル(1252年)、ノイハウゼン(1283年)、ロシテン(英語版)(Rossitten、1372年)に築いた。

16世紀になると、新しい砂丘の形成期に入った。過放牧、ボートや住居用の材木の取得などが森林破壊に結びつき、砂州が砂丘で覆われ、村々を呑み込んだ。こうした事態に危機感を募らせたプロイセン当局は、1825年に大規模な森林再生や緑化活動の支援を開始した。このおかげで、今に至るも砂州の大半は森林に覆われている。

19世紀に砂州に住んでいたのは、主にラトビア人に近縁なクルシュー人(英語版)(Kursenieki)で、南部には少数のドイツ人、北部には少数のリトアニア人が暮らしていた。クルシュー人は同化したりした結果、その数を減らしていき、砂州がゲルマン民族に占められた1945年以前には、ほとんど見られなくなった。20世紀になっても、この地域で暮らす住民のほとんどは、漁業で生計を立てていた。

ソビエト連邦の崩壊後は観光地として賑わうようになっている。主にこの地域に住んでいた人々の子孫にあたるドイツ人たちの多くが休日の旅行先としてクルシュー砂州を選ぶが、中でも特にニダは賑わいを見せている。

2002年から2005年にカリーニングラード州とリトアニアそれぞれの地元の環境保護論者たちは[1][2]、ルクオイル社によるD6油田の採掘計画に反対した。D6油田はクルシュー砂州から22.5 km に位置するロシア領海内の油田だが、石油が漏れれば、環境と観光双方に深刻な影響をもたらす恐れがあると判断したためである(観光収入の断絶は、地元民にとって死活問題である)。この反対運動はロシア政府の支援は受けられなかったが、リトアニア政府の支援を受けることが出来た。D6油田はリトアニア国境から4 km に位置し、北に向かう卓越流のせいで石油漏れの際にはリトアニアの海岸線に重大な被害をもたらす可能性があるためである。しかし、反対運動が国際的な支援を呼び込むことが出来ないまま、2005年に海上油田掘削基地が開設された。

^ [1] ^ [2]
写真提供者:
A.Savin - FAL
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