Glacier National Park (Canada)

( グレーシャー国立公園 )

グレーシャー国立公園(Glacier National Park)はブリティッシュ・コロンビア州に七つある国立公園の一つで、1886年に設立、面積は1,349平方キロメートルを占め、コロンビア山脈の一部を含んでいる。また園内にはロジャーズ峠国定史跡がある。

公園の歴史は、2つのカナダの重要な交通路、1885年全通のカナダ太平洋鉄道(CPR)と1963年開通したトランスカナダハイウェイとをしっかりと結びつけている。公園の中心に位置する峠は1881年まで探検家を拒み続けた。鉄道は観光客を呼び込み、グレーシャー国立公園の設立と人気のあるアルプス風のホテルをもたらした。公園内の冬季における大量の積雪と雪崩の巣と化した険しい渓谷は、交通における著しい障害となり、数多くの鉄道技術者と雪崩対策施設を必要とされることになった。

園内には高い山岳に巨大な氷河、そしてカナダで最大級の鍾乳洞が存在する。深い森は大型哺乳類や野鳥、高山植物を育んでいる。この地域は大量の積雪で有名でもある。園内には遊歩道が広範囲に張り巡らされ、キャンプ場が3ヶ所、小屋やキャビンが4ヶ所にある。領域を二分する交通路により、グレーシャー国立公園には多くの観光客が訪れる。

セルカーク山脈(英語版)がヨーロッパ人によって最初に記録されたのは、1811年にコロンビア川を探検していた、北西会社の探検家デービッド・トンプソンの手によってだった。彼は、ネルソン提督に肖ってネルソンズ山脈と名づけたが、後に商売敵であったハドソン湾会社の重役、トーマス・タグラス・セルカーク(英語版)にちなんで改名された[1]。

カナダ太平洋鉄道の建設が始まってから、セルカーク山脈を越えるルートを見つけ出すことは最優先課題となり、また鉄道の完成は、ブリティッシュ・コロンビア植民地(英語版)が1867年に自治領カナダ(英語版)への加盟する条件の一つだった。1865年、CPRの測量技師ウォルター・モバリー(英語版)イルシルワト川(英語版)(彼自身が命名、オカナガン語で“速い水”を意味する)を遡上する遠征を率いた。モナシー山脈(英語版)のそばを通り抜けるイーグル峠(英語版)を発見したばかりだというのに、モバリーはタンジール・クリークの急流に道を阻まれ、セルカーク山脈を越える峠の発見に失敗した。モバリーの探検隊は季節の遅れによって再調査に着手できず、撤退を余儀なくされた[2]。

ロジャーズ峠

アルバート・ボーマン・ロジャーズ(英語版)少佐率いる探検隊が、1881年にイルシルワト川を遡上し通行可能な峠を発見した。ロジャーズは山脈超えルートを探し出した功績により、5,000ドルもの賞金を得た[3]。1885年、CPRはロジャーズ峠を通る鉄道建設を完了し、カナダにおいて初めて列車が太平洋に向けて西へと走行することとなった。連邦政府とCPRは即座に、この山脈の極度に氷河で覆われた地域の観光価値に気づき、1886年にグレーシャー国立公園を設立した[4]。同年に設立されたヨーホー国立公園(英語版)に加えて、この公園は初期に設立されたバンフ国立公園に続き、新たな公園システムのちょうど二つ目となった。

グレーシャー・ハウス  1909年のグレーシャー・ハウス

ロジャーズ峠に至る路線はあまりに勾配が急なため、CPRは食堂車の運用を断念し、1886年に峠の西側へホテルを建設した。同年に全く同じフロアプランで建築されたヨーホー国立公園のマウント・ステファン・ハウス(英語版)を含む、カナダ中に設けられたCPR所有のホテル(英語版)の一つとして加わった。イルシルワト氷河(当時はグレート氷河と呼ばれていた)の末端近くに建てられたグレーシャー・ハウスは、セルカーク山脈における観光・登山・氷河研究・撮影の中心となった。ホテルは1905年と1911年の二度増築され、20世紀の変わり目におけるカナダ西部で1級の観光スポットとみなされるようになった[5]。

ホテルは世界中から登山家を惹きつけ、その標高のために、登山者は部屋を出て数時間のうちに高山へと分け入ることができた。1899年、CPRは高山地帯に向かう山にあまり詳しくない観光客向けに、スイス人ガイドを数名雇い入れた。グレーシャー・ハウスの時代を通じて、園内の数多くの未踏峰が征服されていった。ホテルは、高山環境の研究を切望する博物学者や科学者をも惹きつけることとなった。メアリー・ヴォー・ウォルコットと弟のジョージにウィリアム・ヴォーはこの地域を幾度と無く訪れ、イルシルワト氷河の最初の価格的研究を開始した[6]。

登山

グレーシャー・ハウスはアメリカ登山協会の歴史家ウィリアム・ローウェル・プットナム(英語版)により北米における「最初のアルピニズムの中心」とみなされた[7]。最初の20年のうちに、ヨーロッパとアメリカのプロ登山家が殺到するのを見ることとなる。ウィリアム・スポッツウッド・グリーン(英語版)は、CPRの路線沿いにあるピークが有する並外れた登山の可能性に言及した最初のヨーロッパの登山家である。グリーンとヘンリー・スワンジーは1888年の夏季に、ボニー山とグリーンズ・ピークを登山することで主要なピークの最初の登頂記録をつくった。イギリス人登山家のハロルド・トップハムは、1890年にフォックス山を含む数多くの初登頂を成し遂げ、彼は後にヘンリ・フォスターとスイス人登山家、エミール・フーバーとカール・ズルツァーを加えて、公園南部のピークを探索した。フーバーとズルツァーは劇的なサー・ドナルド山の初登頂も成し遂げている[8]。

地図製作者・登山家でカナダ登山家クラブ(英語版)(ACC)の設立メンバーであったアーサー・オリバー・ホイーラー(英語版)は、グレーシャー・ハウスを1901年に訪れている。これを契機にセルカーク山脈北部との30年に及ぶ関係が始まり、ホイーラーはこの地域の地図を作り、大量の地理学資料を公刊し、公園内に存在するほとんどの地勢を探検した[9]。彼の名はイルシルワト・キャンプ場にあるACCのハットに冠せられ、また園内のピークや峠にも彼の名が付けられたものがある。アメリカ登山協会(英語版)の初代会長であったチャールズ・アーネスト・ファイ(英語版)教授は、1890年代に公園を訪れた後、会誌に紀行文を寄せている[10]。1900年代には、園内のほぼすべてのピークに人跡が刻まれることとなった。

コンノート・トンネルとトランスカナダ  1910年ロジャーズ峠雪崩(英語版)の犠牲になった同僚を救出しようと試みるCPR労働者

1886年の最初の冬の訪れを迎えて、CPRにとってロジャーズ峠の多量の降雪が重大な障害になることが明らかになった。雪崩から線路を守るため、いたるところにスノーシェードが築かれている。しかしこのシェードは木製だったため、夏の間に火災の原因となり、結果として、夏季専用の路線がひかれることとなった。1910年、雪崩のデブリの除去作業を行っていたところをアバランチ山脈から別の雪崩(英語版)が襲い、62名の死者が生じた。この雪崩による死者の半分以上が日系人だった[11]。1886年から1916年にかけて、全体で200人の鉄道職員が殉職している。1912年、CPRは敗北を認め、峠とマクドナルド山(英語版)の地下に8キロメートルに及ぶトンネルの建設を開始した。このコンノート・トンネル(英語版)は1916年に開通した[12]。

この新トンネルはグレーシャー・ハウスを沿線から外すこととなり、鉄道客の喪失はこの有名だったホテルの息の根を止めることとなった。1925年にホテルは閉館し、その4年後に取り壊された。その後30年間、カナダ登山家クラブ(英語版)のサマーキャンプを除き、訪問客はわずかでした。この時点まで、コロンビア山脈を横断しようとする自動車は、コロンビア川上流部の大きな北への屈曲に沿って走る遠回りな「ビッグベンドハイウェイ」を使わなければならなかった。コロンビア川条約(英語版)によって締結された谷筋の大規模な治水事業の遂行のためにも、新たなハイウェイルートが必要とされていた[13]。1963年にはロジャーズ峠を越えるトランスカナダハイウェイが完成し、大勢の観光客を公園に取り戻した。パークス・カナダは新たに複数のキャンプ場を設置し、遊歩道を拡充した[14]。

^ Woods 1987, p. 58. ^ Boles 2006, p. 132. ^ Putnam 1982, p. 20. ^ “History”. Glacier National Park. パークス・カナダ. 2013年4月6日閲覧。 ^ Putnam 1982, p. 37-40. ^ Putnam 1982, p. 81-87. ^ Putnam 1982, p. Preface. ^ Putnam 1982, p. 67-76. ^ Putnam 1982, p. 93. ^ Putnam 1982, p. 100. ^ “Avalanche Sweeps Scores into Canyon; Sixty-two Canadian Pacific Workmen Crushed to Death in Rocky Mountain Pass”. New York Times. (1910年3月5日). http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F30C13FD3F5417738DDDAF0894DB405B808DF1D3 2011年3月3日閲覧。  ^ Woods 1987, p. 59. ^ Bradley, Ben (2011). “A Questionable Basis for Establishing a Major Park': Politics, Roads, and the Failure of a National Park in British Columbia's Big Bend Country”. In Campbell, Claire. A Century of Parks Canada, 1911-2011. Calgary, AB: University of Calgary Press. ISBN 9781552385265. http://dspace.ucalgary.ca/bitstream/1880/48466/9/UofCPress_ParksCanada_2011_Chapter04.pdf  ^ Woods 1987, p. 63.
写真提供者:
Statistics: Position
1519
Statistics: Rank
80659

コメントを追加

この質問はあなたが人間の訪問者であるかどうかをテストし、自動化されたスパム送信を防ぐためのものです。

セキュリティー
165879243このシーケンスをクリックまたはタップします: 5676

Google street view

どこの近くで寝れますか グレーシャー国立公園 ?

Booking.com
489.362 総訪問数, 9.196 興味がある点, 404 保存先, 2 今日の訪問.