Казань

( カザン )

カザン(露: Каза́ньカザーニ、タタール語: Казан)は、ロシア連邦・タタールスタン共和国の首都。人口は約130万人(2021年)。モスクワから東へ800km、ヴォルガ川(クイビシェフ湖)とカザンカ川の合流点に臨む商工業都市で、水上・陸上交通の要衝。タタール文化の中心であり、カザン・クレムリンをはじめとする多くの文化遺産やカザン大学などの教育機関が集積している。イスラム教とキリスト教が混在しており、多文化、多宗教な都市である。

カザンの歴史の概要  カザン・クレムリン

11世紀初頭にヴォルガ・ブルガールによって建設された。15世紀にはカザン・ハン国の首都として栄えたが、1552年カザンはイヴァン4世(イヴァン雷帝)に占領される。破壊されたカザン・ハン国の城砦のあとにはカザン・クレムリンが建設された。1708年にカザン・ハン国が廃止され、カザンはロシア帝国の地方都市、カザン県の県都となった。1774年、プガチョフの乱で破壊された。

20世紀になり、カザンはタタール文化の中心都市として復興した。ロシア革命後の1920年タタール自治共和国の首都となる。第二次世界大戦中は疎開により各種の工場が移転してきており、工業が発展している。1930年代から1970年代にかけて都市改造が行われた。2005年には建都1000年を記念して様々な祭典が催され、地下鉄が開業した。

町の始まり  市内に広がるカバン湖

カザンの初期の歴史については記録が乏しいため、カザンはヴォルガ・ブルガールが中世に築いたのか、あるいはジョチ・ウルスのタタール人が15世紀半ばに築いたのか、という論争が長い間続いている。この論争の背景には、ヴォルガ流域の民族のアイデンティティを巡る問題がある(ブルガール論争も参照)。もしこの地にブルガール人の都市があったとすれば、カザンの歴史は11世紀初期から13世紀末期に遡ることになる。ヴォルガ・ブルガールにとってこの地はフィン・ウゴル系民族(マリ人、ウドムルト人)との境界であった。もう一つ論争となっているのは、カザンの城塞はもともとどの場所に作られたかである。考古学者による発掘は、カザン市内の三か所に集落の跡を発見してきた。ヴォルガ川とカザンカ川の合流点にある現在のクレムリの内部、クレムリからはカザンカ川を挟んで対岸にあたるジランタウの丘(Zilantaw、[1]ジラントフ修道院がある)、クレムリの南の市街地中心部にあるカバン湖(Qaban)の近く、の三か所である。うち最も古い集落跡はクレムリン内部のもので11世紀に遡る。

11世紀から12世紀にかけて、カザンの前を流れるヴォルガ川はスカンジナビアからペルシャ方面やギリシャ方面へ向かう交易路であり、カザンはその水路を守る砦だった可能性がある。また交易拠点であった可能性、この地方に入植してきたブルガール人の大きな都市があった可能性もある。ただし、ブルガール人の首都は、当時ははるか南のブルガール(Bolğar、現在のボルガル市付近)にあり、カザン周辺は彼らにとって辺境であった。

13世紀前半、モンゴルの襲来で、ブルガールおよびビリャルといったブルガール人の都市はことごとく廃墟と化し、北のカザンに逃れる人が増えた。ブルガール人はジョチ・ウルスの支配下に入り、カザンはブルガール人の諸侯国の一つの中心になった。やがてブルガール人はタタール化してゆき、ブルガール人の諸侯国もタタール人が公位を簒奪する事態も生まれた。タタール人の中にはヴィータウタスに招聘されてリトアニア大公国へ向かった者もおり(リプカ・タタール人)、カザンのようなタタール人の地にもリトアニアの影響力が及ぶようになった。

ジョチ・ウルスの中央政権が崩壊に向かっていた1438年頃、ハーンの地位を巡る争いに敗れたウルグ・ムハンマド(Olugh Mokhammad)はサライから北に逃れてカザンに至り、カザン・ハン国を樹立した。この時期に城塞が再構成され、カバン湖から城塞の下のカザンカ川までを南北に結ぶボラク運河も掘り直された。濠にもなる運河建設によりカザンの城塞は守備力を増し、内部には宮殿や邸宅、クル=シャーリフ・モスクなどが築かれた。カザンの大バザールであるタシュ・アイク(Taş Ayaq)はこの地方で最も重要な交易の中心地となり、特に工芸の伝統を生かした家具取引や、ロシアと中東を結ぶ交易で栄えた。またカザン・ハン国滅亡直前の16世紀半ばにはスュユンビケ女王を中心とした宮廷にイスラム文化が花開いた。ロシア人はカザン・ハン国の内紛に何度も介入し、何度もカザンを攻め市街地を占領したが、1552年のカザン陥落以前は占領が長続きしたことが一度もなく、撤退を余儀なくされていた。

カザン陥落とタタールに対する抑圧  ロシアによるカザンの陥落

1552年の9月から10月、ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世(雷帝)は15万の兵力でカザンを包囲し(カザン包囲戦(英語版))、砲撃と攻城戦の末、ついにカザンを占領してカザン・ハン国を屈服させた。住民の多くは虐殺され市街地も城塞もすべて破壊された。カザン陥落の功労者でもある将軍アレクサンドル・ゴルバーチイ=シュイスキー(英語版)Алекса́ндр Бори́сович Горба́тый-Шу́йский)がカザン総督となると、ハン国時代からのタタール人住民は殺されたり鎮圧されたりキリスト教への改宗を迫られたりした(カザンの反乱(英語版))。タタール人は結果的にカザンを追放されて50キロメートル離れた場所に移住させられ、代わりにロシア人の農民や兵士が入植させられた。大土地所有者であったタタール人貴族や大きなモスクも滅ぼされるか追放され、代わりにロシア人が大地主となった。16世紀後半にエルモゲン(ゲルモゲン)がカザン大主教となった時期の正教化政策もモスクやマドラサに打撃を与えた。一方でタタール人兵士や貴族の中にはロシアに仕えて独自の地位を18世紀まで保持した者もいたが(勤務タタール、タタール語: йомышлы татарлар : Yomışlı Tatarlar; ロシア語: Служилые татары)、彼らも城内に住むことはできず、市壁の外側の集落(Bistäse)に住んだ。後にはタタール人の商人や職人もここに住み、タタール人街を形成した。プスコフからの職人たちが呼ばれ、カザンの城塞跡に現在のカザン・クレムリンが建設された。

 カザンの生神女のイコン

カザンでは何度も大火災が起きて市街地が破壊された。1579年の大火の後には「カザンの生神女」のイコンが市内の地下から発見されている。このイコンは後に神聖なものとされ、モスクワやサンクトペテルブルクをはじめロシア国内各地に「カザンの生神女」イコンに捧げられたカザン大聖堂が建てられている。ボリス・ゴドゥノフがツァーリになった時代、ロシアが大動乱と呼ばれる内戦と混乱に落ち込むと一時的にカザン・ハン国は独立を取り戻すが、1612年にクジマ・ミーニンの国民軍により鎮圧された。

カザン県とプガチョフの乱  カザン(1630年)

カザン庁(приказ Казанского дворца)が管轄していたカザン・ハン国は1708年には正式に廃止され、カザン県が代わりに置かれてカザンがその県都となり、カザン・クレムリン内には知事公邸、行幸御殿、軍司令官官舎など行政・軍事・宗教の中枢が立ち並んだ。ピョートル1世のカザン訪問後、ロシア海軍のカスピ海艦隊の造船所がカザンに建設されることになった。プーシキン以前の大詩人であるガヴリーラ・ロマーノヴィチ・デルジャービンは1743年にタタールの末裔である貧しい郷士の息子としてカザンに生まれた。デルジャービン自身はロシア人としてのアイデンティティを持ち、ロシア文学の歴史に大きく貢献している。

エカチェリーナ2世の時代にあたる1774年7月12日、カザンはドン・コサックのエメリヤン・プガチョフが率いる農民や辺境守備兵らの反乱軍によって包囲され、皇帝軍は敗れ市街地は破壊・略奪された。しかしカザン・クレムリンは陥落せず、その日の夕方に皇帝軍の増援が到着し、7月13日から15日にかけての戦いでプガチョフの軍は大敗を喫した。これがプガチョフの乱の転換点になったカザンの戦いである。エカチェリーナ2世はカザン市街を再建し、同時にそれまで禁じられていたモスク建設を許可した。マルジャーニー・モスクがこの時に建設された最初のモスクである。タタール人商人もエカチェリーナ2世の庇護の下で活動を活発にし、ロシアと中央アジア間での商取引を掌握した。タタール商人の中心の一つであるカザンは物資の集散地として栄えた。しかしタタール人の文化や宗教に対する抑圧はなおも続いた。

近現代のカザン  19世紀のカザンの地図。ソ連時代のヴォルガ川のダム建設により、川幅はこの時よりも大きくなっている

19世紀初頭、アレクサンドル1世はカザン大学と印刷所をカザンに創設した。1801年はカザンで最初にクルアーンが印刷された年で、カザンはロシアにおける東洋学研究の拠点となった。19世紀末までにカザンはヴォルガ中流の産業の中心に発展し、周囲の農村から職を求める人々がカザンに集まった。1875年には馬車鉄道が市内を走り、1899年に市電が開通した。一方でクリミア半島に始まったムスリム知識人の改革運動・ジャディード運動もカザンに達し、カザンはロシアにおけるイスラームの復興運動や改革運動、政治運動の拠点ともなった。1905年のロシア第一革命以後、ようやくタタール人はカザンをタタール文化の中心として復興させることを許された。タタール劇場にタタール語新聞もこの時に出現した。ミールサイト・スルタンガリエフのようなムスリム社会主義者も活動し、1920年代初頭まで、ソ連の政治において大きな役割を果たした。

1917年8月14日にはカザン火薬工場で火災が発生し、爆発も起こり市内に被害が広がった。工場は完全に破壊され火は24日まで消えなかった。ロシア革命後のロシア内戦では、1918年にタタール人らによりイデル=ウラル国がカザンを首都として樹立されたが、まもなくボルシェヴィキ軍により滅ぼされた。1918年8月にはチェコ軍団がカザンを占領している。1920年、タタール自治ソビエト社会主義共和国がカザンを中心に建設された。

 上空からのカザンの夜景

1920年代から1930年代にかけてカザンは重工業の拠点となったが、同時に多くのモスクや聖堂が破壊された。第一次世界大戦後、国際的な孤児となったドイツの軍部(ヴァイマル共和国軍)は、同じく共産主義国家として国際的に認められないソビエト連邦と秘密協定を結び、カザンに戦車の開発・訓練基地 (Inspektion 6 Kraftfahrwesen) を設け、赤軍と共にヴェルサイユ条約が禁止する戦車の研究開発を1933年まで継続した。これはナチス体制下のドイツ国防軍の急速な軍備拡大の種子となっている。第二次世界大戦ではロシア西部から多くの工場がカザンへも避難しており、軍需産業の中心となって戦車や戦闘機などの製造がおこなわれた。カザンは戦後も軍需産業や重工業の中心となり、爆発的に人口が増加しアパートが立ち並ぶようになった。

1980年代末から1990年代、ペレストロイカとソビエト連邦の崩壊により、カザンは再びタタール文化の復興を見たが、一方でタタールスタンの独立宣言によりロシア連邦とタタール分離主義者との間の緊張も発生した。2000年より市内は大規模な修復作業が進行した。特にカザン・クレムリンでは、1552年のカザン陥落で破壊されたクル=シャーリフ・モスクと、1562年に完成したものの1930年にソ連当局により破壊された生神女福音大聖堂(ブラゴヴェシェンスキー大聖堂)の双方が再建された。2005年7月29日にはカザンカ川に架かる長さ831メートルの斜張橋・ミレニアム橋が開通し、同年8月27日には地下鉄も開業した。これらは2005年のカザン建都1000年に合わせた大事業であった。しかし「建都1000年」の年号は恣意的に決められた部分もある[2]。

^ ジランタウの丘は、もとはタタール語でYılantaw/Елантау/Жылантау・「蛇の山」と呼ばれ、カザンの象徴である竜・ユラン(ジラント)の伝承にも関わる。 ^ Putin joins Tatarstan festivities BBC News 2005-08-26
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AndrianovaNatalia - CC BY-SA 3.0
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