カサブランカ(Casablanca、アラビア語: الدار البيضاء; ad-dār al-bayḍāʼ)は、モロッコ王国最大の都市。「カサブランカ」はスペイン語で「白い家」という意味があり、アラビア語名のダール・アル=バイダーも同じ意味である。モロッコの商業・金融の中心地で、2019年に発表されたグローバル都市指標では世界第94位、2022年に発表された世界金融センター指数では世界第54位の都市と評価されるなど、アフリカ有数の世界都市でもある。港湾も経済を支える重要な要素で、リン鉱石が最大の輸出品。漁業・魚缶詰も盛んである。
紀元前10世紀にベルベル人がアンファという地域に定住したのが、カサブランカの始まりだといわれている。紀元前7世紀頃にフェニキア人、紀元前5世紀頃にはローマ人と交易が行われていた。
7世紀、アンファを中心とした独立国家が形成されたが、1188年にイスラムのムワッヒド朝に支配を受けることとなる。14世紀にはマリーン朝によって大規模なイスラムへの改宗が行われた。またその頃、港湾が大きく発達した。15世紀になってアンファは再び独立を果たした。アンファの港を拠点とする海賊船がポルトガルやスペインを襲い、1468年にそれに怒ったポルトガル人によって焼き払われてしまった。
カサブランカ1515年に、ポルトガル人によって町の再建が行われ、町を"Casablanca"と名付けた。白い家という意味である。しかし、1755年に起こったリスボン大地震によってカサブランカも甚大な被害を受け、ポルトガル人はカサブランカを去った。
カサブランカはアラウィー朝モロッコに統合され、1770年からムハンマド3世によって町の再建工事が行われ、町は要塞化された。18世紀からはスペインと、19世紀に入るとそれに目を付けたヨーロッパの列強諸国との間で交易が始まり、主にウールの積出港として発展した。人口も急激に増大し、1830年に600人だった人口は、1868年に8,000人にまで成長した。
フランス領へ フランスのアンリ・ジロー将軍(右)とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領。しかし、ヨーロッパ列強に対する住民の不満は募っていた。1907年に港湾工事を行っていたヨーロッパ人労働者を住民が殺害したのを機に、暴動に発展。フランス、スペインが軍艦を派遣し、カサブランカを砲撃、フランス軍はカサブランカを占領した。1912年、モロッコはフランスと保護領条約を締結し、カサブランカはフランスの保護領となった。
フランス保護領モロッコの初代総督に就いたウベール・リヨーテ将軍がカサブランカを商業の中心として整備した。第二次世界大戦中はドイツ軍によってフランスが占領されたために、戦争当初は親独のヴィシー政権の支配下にあったが、連合国軍の北アフリカ侵攻によって連合国軍に占領され、自由フランスに復帰した。1943年にはカサブランカ会談が開かれた。
独立後第二次世界大戦後の1956年にモロッコがフランスから独立し、フランスはカサブランカから撤退した。その後カサブランカはモロッコ最大の都市として繁栄し、世界各国から観光客が訪れ、モロッコの経済の中心地の地位を占めている。
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