Campo de Criptana

( カンポ・デ・クリプターナ )

カンポ・デ・クリプターナ(Campo de Criptana)は、スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダー・レアル県のムニシピオ(基礎自治体)。コマルカ(郡)としてはマンチャ・アルタの構成自治体のひとつである。ミゲル・デ・セルバンテスが著した小説『ドン・キホーテ』で主人公が巨人と勘違いして突進した風車群のモデルであるとされる。

 セルバンテスの銅像先史時代・古代

周辺地域には先史時代から人類が居住しており、先史時代の狩猟・採集・農耕用道具が様々な場所から発掘されている。現在の市街地中心部から4km北にあるビリャホスには、先史時代から人類が居住していた。また、数多くの考古学的遺跡や歴史的文献が、青銅器時代以来の居住者の存在を証明しており、青銅器時代の陶器片などが発掘されている。歴史時代以降でもっとも多い遺跡は古代ローマ時代のものである。

中近世

少なくとも中世には、ビリャゴルドやエル・ピコ・デ・ラ・ソラーナなど同様に、クリプターナ、ビリャホス、ポサーダス・ビエハス、エル・カンポにも集落があったとする証拠がある。

現在の自治体域への居住は遥かに早くから行われており、クリプターナの集落は現在の市街地中心部より2km東に位置していた。1162年の聖ヨハネの政令では、クリプターナ、ケーロやアティレスなどとともに、ビリャホスは聖ヨハネ騎士団の所有地として登場し、トレドのモサラベ貴族であるミゲル・アサラフに対して、再定住するためにクリプターナの名称が与えられた。中世の様々な文献で、ビリャホスはビリャ・デ・アリオス、ビリャ・デ・アイオスなどのような名称で言及されている。ビリャホスは12世紀から衰退がはじまり、中心部にあったオリジナルの教会の跡地に現在の修道院が建設された。

今日のカンポ・デ・クリプターナ市街地中心部への居住は13世紀に遡る。現在の市街地はエル・カンポと呼ばれ、クリプターナ城の前哨基地を担っていたラ・パス丘の要塞的な位置にあった。この地域の地形的特徴が都市の形成と南側の平原への都市の拡大を決定づけた。後に町はサンティアゴ騎士団に渡され、ビリャホスやペドロ・ムニョスにも有していた土地の中心地を形成した。「カンポ・デ・クリプターナ」という名称が文献で初めて言及されたのは14世紀初頭である。カンポ・デ・クリプターナは14世紀までに再び衰退を始めた。

ポサーダス・ビエハスに関する文献はほとんど存在しないが、現在の鉄道線の南側にあるプエンテ道路の近くに位置し、1300年頃に衰退したという。

中世を通じて中心部の人口は成長し、サンティアゴ騎士団による様々な職人が居住していた。16世紀のカンポ・デ・クリプターナは繁栄の時代を経験し、民間資本(テルシア家による穀倉建設)、宗教資本(カルメリタス修道院によるパスの聖母修道院、ベラクルス修道院、サンタ・アナ修道院、コンセプシオン修道院)それぞれが村内で多数の建設計画を行った。

レコンキスタ後の16世紀末、多くのアラブ人家族がグラナダからカンポ・デ・クリプターナの東部に避難してきた。古代にグラナダにあった同名の地区の名称に因み、新しく生まれた地区はアルバイシン地区と呼ばれている。アルバイシン地区の家々には白色と藍色に塗られたアラブ風タイルが残っており、窓は鉄格子で装飾されている。

1575年のフェリペ2世の調査記録では1,000世帯(4,000人-5,000人)があったとされているが、17世紀初頭には1,300世帯-1,500世帯にまで増加した。

しかし、17世紀に起こったカスティーリャ王国の危機はカンポ・デ・クリプターナにも及び、その拡大を停止した。気候、病気の流行、不作、過度の課税などにより、それ以降は人口の伸びが停滞し、19世紀になるまで回復はとてもゆっくりとしたものだった。

近現代

19世紀初頭にスペインを含む連合軍とナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が戦った半島戦争(スペイン独立戦争)ではカンポ・デ・クリプターナも影響を受けたが、やがて戦争の影響を脱し、地域の農業中心地となって人口も徐々に増加した。これによって、教会財産の没収の恩恵を受けたブルジョアジーが出現した。

19世紀初頭まで、地域経済は伝統的な地中海式農業に基づいており、穀物、オリーブ、ブドウ、羊毛などを生産していた。19世紀初頭には一定程度の工業化が始まり、特に小麦粉製造やワイン製造が第一次産業に関連していた。

19世紀後半の鉄道の到来は、市街地南東部にある鉄道駅近くへの新たな工業施設の建設につながった。19世紀後半には経済力が強化され、この時期のカンポ・デ・クリプターナの建物を特徴づける、歴史的・地域的・近代的な建築の出現を可能にした。これらの裕福な家族は町の中心部に住居を建て、広大な開放耕地が卓越していた農業様式からの転換など、町に特色をもたらす都市再生を牽引した。開放耕地のひとつは住宅用地となり、この土地は農業活動よりもむしろ居住活動に関連していた。

1930年代のスペイン内戦まで、カンポ・デ・クリプターナの平坦な領域では人口が拡大し、市街地は南に向かって拡大した。1950年には人口15,659人を数え、カンポ・デ・クリプターナは20世紀中頃に最高人口に達したが、1980年までに人口は2,369人も減少し、大都市への移住の結果、経済的成長は止まった。市街地の拡大も終わり、成長は南部での小規模な開発に限定された。

1975年以後の民主化(英語版)の時代には町が再興して拡大し、1970年代からの20年間で市街地面積はほぼ倍増した。その結果、増え続ける住宅地(大部分が一戸建て)、工場施設(市街地の南東端に孤立している)、オフィスビルなどが、全体的にインフラが欠如した非計画的な都市部を形成した。自治体レベルでの都市の開発を管理する決定の正式採用により、1981年に民主化後初の自治体の計画規則が承認されてから、状況は徐々に改善しつつある。20世紀後半には、風車群を中心とした観光業が地域経済を変容させる新たな要素となった。

20世紀末まで、市街地中心部から13km南東にあるアレナーレス・デ・サン・グレゴリオ(スペイン語版)(人口約700人)もカンポ・デ・クリプターナの自治体域に含まれていたが、サン・グレゴリオは1999年に独立した自治体となった。

パス丘を取り囲むすべての通りは旧市街の形状に沿っており、このことが平原上にあるラ・マンチャ地方の他の町と丘陵上のカンポ・デ・クリプターナを分けている。

写真提供者:
Lourdes Cardenal - CC BY-SA 3.0
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