ボラボラ島(ボラボラとう、タヒチ語:Bora Bora)は、フランス領ポリネシアのソシエテ諸島にある島である。
かつて、ボラボラ島ではFaanuiとVaiotahaをそれぞれ中心地とする2つの集団が争っていた。 また、宗教権力ではライアテア島と争っていた。 ある時期までは、ボラボラ島とライアテア島は共同で他のリーワード諸島の島々に政治的・宗教的影響力を行使していた。 しかし、ライアテア島が圧倒的な宗教的権威を、ボラボラ島が高い軍事力を持った事で、島同士の争いだけでなく島内の内戦も起きるようになった。
1722年、オランダのヤーコプ・ロッヘフェーンがヨーロッパ人として初めてボラボラ島について述べた[1]。
18世紀の大首長、プニは島を統一し、続いてタハア島を征服した。
1763年、3年間の戦争の結果、プニはライアテア島を征服した。
1769年7月29日、ジェームズ・クックが両島に近付いた際も、プニ率いるボラボラ島軍が支配していた[2]。
1777年、クックが初上陸した。
1778年、プニが崩御し、甥のタポア1世が3島の支配者となった。 彼はライアテア島に首都を移した。
1812年、タポア1世が崩御した。
1820年、ロンドン伝道会が上陸した。
ボラボラ王国国旗(1837~1842年) テリーマエヴァルア3世と従者達(1899年頃)19世紀前半にボラボラ島を統一したボラボラ王国が成立した。
1847年、Jarnac会議の結果、フランス7月王政とイギリス帝国がボラボラ王国を承認した。 同様に独立していたソシエテ諸島の国には、タヒチ王国やフアヒネ島、ライアテア島が有った。 これらの国は全て同じタヒチ語と文化を共有し、王族は結婚を通して血縁で結ばれていた。 ボラボラ王国は本島の他にツパイ島やマウピティ島、マウピハア島、モツ・オネ島、マヌアエ島を支配していた。
1888年、ボラボラ王国はフランスに併合され、植民地となった。
1890年、ロンドン伝道会がプロテスタント教会を建設した。
1895年、最後の女王のテリーマエヴァルア3世が退位させられた[3][4]。
第二次世界大戦では、アメリカ合衆国がボラボラ島を南太平洋地区の要衝とした。 9隻の軍艦と2万tの備蓄、7000人の兵士が置かれたこの島は、Bobcat作戦の中心となった。 幸運な事に、この島では一度も戦闘が起きなかった。
1946年6月2日、ボラボラ要塞は正式に閉鎖された。
1960年にタヒチのパペーテにファアア国際空港が開設するまでは、アメリカ軍が残したボラボラ空港が、大型機が利用出来ないながらもフランス領ポリネシア唯一の国際空港だった[5]。
^ Tahiti et ses archipels par Pierre-Yves Toullelan, éditions Karthala, 1991, ISBN 2-86537-291-X, p. 61. ^ Salmond, Anne (2010). Aphrodite's Island. Berkeley: University of California Press. pp. 36,218,286. ISBN 9780520261143 ^ Christopher Buyers. “Bora Bora: The Tapoa Dynasty Genealogy”. Royal Ark web site. 2012年2月25日閲覧。 ^ Ben Cahoon (2000年). “French Polynesia”. WorldStatesman.org. 2012年2月25日閲覧。 ^ “Contenu et images Notre histoire” [Content and Images Our Story] (フランス語). l'Office des Postes et des Télécommunications [Office of Post and Telecommunications]. 2013年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月18日閲覧。
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