تدمر

( パルミラ )

パルミラ(英語: Palmyra; 、フランス語: Palmyre〈パルミール〉)は、シリア・アラブ共和国中部のホムス(ヒムス、ヒムシュ)県タドモル(アラビア語: تدمر‎, ラテン文字転写: TDMR、Tadmor, Tadmur, Tudmur)にある都市遺跡。シルクロードの隊商都市として発展したシリアを代表する遺跡の1つである。パルミラは、アレクサンドロス3世の東征の後に、ギリシア人がパルミュラと称したことによる。1980年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録され、21世紀初頭までローマ様式の建造物など多数が残っていたが、シリア内戦の治安の悪化により、2013年に危機遺産とされ、2015年から2017年にISIL (IS) による破壊を受けた。

パルミラの近くには、旧石器時代のヒトの痕跡を示す洞窟遺跡が認められ[1][2]、約7万5000年前からの旧石器時代中・後期の細石器類が多数発見されている[3]。また、パルミラのエフカの泉付近より新石器時代の燧石片が発見されるとともに[4]、パルミラの遺丘(テル、tell)の多くから同じく新石器時代のものが発見され、7000年前からの定着が認められる[3]。ベル神殿の地層からも燧石片のほか青銅器時代[4]中期(紀元前2200-前1550年)初頭の痕跡(陶片[4])が発見されている[5]。

パルミラ(タドモル)について記した最古の遺物は、紀元前19世紀の古アッシリア語(アッカド語)粘土板文書であり、アナトリア半島(トルコ中部[6])のキュルテペで発見されたカッパドキア文書に、売買契約の証人「タドムリム(タドモル人)プズル=イシュタル」[7](Puzur-Istar Ta-ad-mu-ri-im) の名が見られる[4]。当時のタドモルは、古代のマリをシリア北部の都とした[8]セム語族のアムル人が占有していた[6]。このユーフラテス河畔のマリ遺跡(現、テル・ハリーリ)で発掘された紀元前18世紀の楔形文字(アッカド語)粘土板2枚からも、それぞれ「タドモル(タドメル)」(遊牧民族〈アラム人[6]〉の「タドモル」襲撃[4])、「タドモル人(タドメル人)」(マリに来た「タドモル人」[4])の記述が見られる[7]。紀元前1100年頃のアッシリア王ティグラト・ピレセル1世[9](在位紀元前1113-前1074年[10])の年代記を記した粘土板文書には、王が「アムル (Amurru[4]) の国のタドマル(タドムル)」を攻略したと刻まれている[11][12]。

ヘレニズム時代

アケメネス朝ペルシア(紀元前550-前330年)のダレイオス1世(在位紀元前522-前486年[13])が西アジアのほぼ全域を統一すると、広大な地域を結ぶ交易路を支配して「王の道」とともに整備した[14]。しかし、地方支配が不安定になり分裂や進入が始まり、マケドニアの大王アレクサンドロス3世(在位紀元前336-前323年[15])が紀元前331年に侵攻して[16](ガウガメラの戦い)アケメネス朝から覇権を奪い、その後、紀元前323年に没した[17]。しかしこの間、都市・行路の整備、地方通貨の統一とともに、従来のアラム語に代えてギリシア共通語(コイネー)を公用語として、ギリシア文化を各地に浸透・融合させていった[18]。

アレクサンドロス3世の没後にはディアドコイ戦争と呼ばれる後継者争いが勃発した[19]。そして、セレウコス1世(在位紀元前304-前280年[20])が紀元前312年に分割された北・東部シリアを得てセレウコス朝(紀元前312-前63年)を創建[21]。シリア、バビロニア、イラン高原を継承して支配した時代に、繁栄していたパルミラの町は[22]、自治に委ねられ、後には独立した。この時代にヘレニズム文化が発展し[23]、紀元前1世紀までに、当初のベル神殿が建立されている。また、多数の共同墓地である塔墓の建設も見られる。この紀元前1世紀以来、パルミラは4大部族が政治・経済を掌握し、それぞれ神殿を有していたとされる。紀元前44年から2世紀の碑文において、パルミラ語で「部族」(パハド、PḤD) を付した「族」(ブネー、BNY)の名は10を数え、「族」のみの名は60余りが知られているが、この4部族の名も各説が論じられており、コマラー (Komare) 族、マッタボール (Mattabol) 族、マージヤン (Ma'zin) 族、ミーター (Mita) 族とする説があるほか、複数の異説も唱えられる。さらに、時代により有力部族の変遷もあったことが考えられる[24]。

紀元前64年、ローマ(共和政ローマ)のポンペイウスが、弱体化していたセレウコス朝を滅ぼして属州としたが[25]、パルミラはその影響下にあるものの[26]、一方のパルティア(アルサケス朝ペルシア、安息[27])勢力とローマ間の緩衝国のように独立を維持しながら、キャラバンの中継地として繁栄した[28][29]。ローマのプリニウスは、その時代のパルミラについて『博物誌』(紀元77年)に、ローマとパルティアの2大強国の間にあり、両大国とも味方に引き込もうとするなどと記している[30][31]。その間、紀元前50年にパルティアのオロデス2世(在位紀元前55/54-前37/36年[32])がシリアに侵攻したことがあり[33]、また、ローマの歴史家アッピアノスの『ローマ誌 (Romaika) 』[34]「内戦記」によれば、紀元前41年にローマのアントニウスがパルミラを襲撃して略奪を企てたが、事前に情報を得たパルミラ人は、全財産を携えてユーフラテス川の対岸(東岸[35])に渡り、射手を配置して万一の攻撃に備えた。そのためアントニウスの騎兵隊は何もない町から引き返したという[33][36]。ユーフラテス川の中流域[37]、パルミラより250キロメートルにあるドゥラ・エウロポス辺りからは、紀元前33年のベル(ベール)とヤルヒボールに奉献した神殿の建立を記すパルミラ語碑文、紀元後32年のバールシャミン神殿の建立を示す碑文などが発見されており、当時この地域へのパルミラ人居住が認められる[38]。

ローマ帝国時代  シルクロードとパルミラの位置
(1世紀頃〈紀元前520-後500年〉)

紀元前1世紀末からの東西貿易の進展により[39]、キャラバンの往来が盛んになると、パルミラ人も東西各地に商業活動を展開した[40]。紀元19年にはすでにパルミラ人がセレウキアに居住していたことが認められ[41]、陸路の東方交易が示唆される[42]。

ローマ第2代皇帝ティベリウス(在位14-37年[43])の時代、パルミラはローマ帝国のシリア属州の一部となった[44]。1世紀初頭とされるパルミラ語碑文には、アレキサンデルというパルミラ人がローマのゲルマニクスにより派遣され、カラケネ王国(カラケーネー[45]〈メセネ、マイシャン[46]〉[注 1]、紀元前2世紀後半-後3世紀初頭[49])の王オラブゼス1世 (Orabazes I) に使わされたと記されており、パルミラはその当時には、ペルシア湾を通じてインド(インダス川周辺)との海上貿易が盛んなカラケネとの交易があったことが示唆される[50]。また、紀元70年と見られるパルミラのアゴラ(取引場)付近の碑文に、カラケネの首都カラクス・スパシヌ(英語版)(スパシヌカラクス[51]、カラクス[52][53]〈現、ホラムシャハル付近[54]〉)から上ってきたパルミラ商人が記されており[55]、1世紀中頃よりパルミラ人の基地としての商業植民地がカラケネのペルシア湾岸にあったとされる[42][56]。さらに108年からのパルミラ碑文により、パルティアのヴォロガセス1世(在位51-80年[57])が建てたユーフラテス中流域のヴォロゲシア (Vologesia〈ヴァラシャバード(英語版)〉) へのパルミラ商人の居住が認められ[58]、ペルシア湾と地中海を結ぶユーフラテス川を経由した東西交易が主体になったことが知られる[42]。

 2世紀前半のパルミラのローマ劇場(2004年)

105年[59]、南のペトラを首都として地中海とペルシア湾との中継地として繁栄したナバテア王国が[23]、皇帝トラヤヌス(在位98-117年[60])に降伏し[59]、106年に[61]ローマに併合されて[23]アラビア・ペトラエア(アラビア属州、Provincia Arabia[62])になると、その通商権はパルミラに移り[61]、ローマ帝国と東方のペルシアからインド、中国を結ぶパルミラの重要性がこの時代に増していった[63]。2世紀前半の123年と129年[64]の2度、ローマの拡大路線を転換した皇帝ハドリアヌス(在位117-138年[65])がパルミラを訪れている[66]。ハドリアヌスは一大隊商都市となったパルミラに自由都市の資格を与え、137年には関税法の制定を許したことで[67]、パルミラは、「パルミラ・ハドリアナ」(「ハドリアナ=パルミラ」[68]〈ハドリアヌスのパルミラの意〉[63])、もしくは「ハドリアノポリス」(ハドリアヌスの都市)と称されるようになった[68][69]。

 パルミラ遺跡の東側の記念門(英語版)(2004年)

カラケネとの交易がいよいよ活発になると、150年代にはパルミラ人自らも東方(インダス川河口地域)への航海に一部進出したことが碑文などから認められる[70]。一方、パルミラからの碑文には、西方への進出に関するものはないが、地中海沿岸への往来は容易であり[71]、イタリアをはじめ、ローマ帝国のもとにあったエジプト(コプトス(英語版))、ルーマニア(ダキア)、アルジェリア(ヌミディア)、イギリス(ブリタニア)などからパルミラ語碑文の墓碑や奉献文が発見されている[26][72]。

セウェルス朝(193-235年)を建てた皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193-211年[73])がパルミラを訪れた後、息子のカラカラ帝(在位211-217年[74])の時代に植民都市に昇格したパルミラは商業活動を極めた。このセウェルス朝の時代に、列柱道路はベル神殿に向けて延ばされ、ローマ風の記念門(凱旋門)が構築されるなど最盛期を迎えた[75]。

諸王の王

222年[76]、パルミラと関係の深いカラケネ王国は、パルティア(アルサケス朝)を倒してサーサーン朝ペルシア(224-651年)を興したアルダシール1世(在位226年頃[注 2]-241年[77])によって[78]滅ぼされた[79]。その後、サーサーン朝は230年にメソポタミアを占領すると、ペルシア湾を支配して海上交易を拡大していった[78][80]。シャープール1世(在位241-272年[79][81])の時代にわたってシリアからメソポタミアにかけてサーサーン朝とローマとの戦闘が相次ぎ、パルミラの通商が途絶えがちになるに従い、パルミラの射手を中心とする部隊がローマのもと編成されていく[82]。

260年に皇帝ウァレリアヌス(在位253-260年[83])が、シャープール1世との戦闘(シリア・メソポタミア戦争(イタリア語版))において、エデッサ(現、ウルファ[84])の戦いで捕虜となり[85][86]、首都クテシフォンで虜囚のまま虐殺されると[87]、セプティミウス・オダエナトゥス(オダイナト[88][注 3]〈ウダイナ[90]〉)が、262年、凱旋の途につくシャープール軍を[91]ユーフラテス河畔において襲撃し[92]、クテシフォンまで追い詰め一矢を報いた[91][93]。オダエナトゥスはアラブ人の家系であり[94]、元老院議員で「タドモル首長」(レーシュ=タドモル[94]〈RŠ TDMWR〉、パルミラ太守〈ギリシア語: exarchos Palmyrenōn〉[95])の称号を持ったハイラーン (Ḥairan[96]) の息子であった[97]。

オダエナトゥスは、続いてガッリエヌス(在位253-268年[98])を支援して対抗勢力を討つなど皇帝の即位に貢献したことで、内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任されるに至った。後の271年のパルミラ語碑文には「諸王の王」(王の中の王[99])にして「東方全域の総督(改革者[100]・再建者[101])」という称号が記されている[102]。本拠パルミラはローマから半独立状態にあり、オダエナトゥスは東方総督として、肥沃な三日月地帯のシリアからメソポタミアのオアシス都市を味方にして、常にサーサーン朝と対峙したが、267年の出征の際、オダエナトゥスと長男ヘロデス(英語版) (Herodes[103]) が、エメサ(現、ホムス[103])で、甥のマエオニウス(英語版)によって暗殺された[104][102]。しかし、オダエナトゥスの後妻であったゼノビア(バト=ザッバイ〈BTZBY、Bath-Zabbai〉「ザッバイの娘」の意[81])が間もなく鎮圧し[105]、実子のウァバッラトゥス(ワーバラト[106]、ワハバッラート〈「神アッラートの贈り物」の意〉[107])を擁立してパルミラの実権を握った[108][109]。文化的素養があったといわれるゼノビアは、側近の一人として哲学者カッシオス・ロンギノス(英語版)を顧問に迎えている[110][111]。

パルミラ帝国

オダエナトゥス亡き後、皇帝ガッリエヌスは東方の司令官にヘラクリアヌス(英語版)を就かせ、ペルシアに遠征を命じたが、パルミラ軍の攻撃に会い失敗している。しかしこの当時、シリアの州都アンティオキア(現、アンタキヤ[112])はまだローマの支配下にあった[113]。一方、ローマでは268年にクラウディウス・ゴティクス(在位268-270年[114])が皇位に就くも270年に没し[115]、同じ時代にゲルマン人部族の侵入などもあって混乱するなか[116]、ゼノビアはパルミラの将軍ザブダスをアラビア・ペトラエア(アラビア属州)の都ボストラ(現、ボスラ)に遠征させた(ボストラ略奪(英語版))。さらに交易の要衝であったアエギュプトゥス(エジプト属州)のアレクサンドリアにザブダス率いるパルミラ軍7万人を派遣して占領した(パルミラのエジプト征服)[117][118]。パルミラ軍がアンティオキアに侵攻したのは270年頃といわれる[119]。そしてアウレリアヌス(在位270-275年[120])がローマ皇帝に即位した後、ゼノビアは「女王[121]」の称号をもって独立を宣言したと見られ[122]、272年には[123]、帝国における皇妃(女王[124])の称号「アウグスタ[125]」を名乗り[126]、また、息子ウァバッラトゥスを皇帝である「アウグストゥス[125]」としている[127]。

 古代ローマ時代271年の勢力図
  ガリア帝国
  ローマ帝国
  パルミラ帝国

ローマ帝国の属州であったシリア・パレスティナ(英語版)、アラビア・ペトラエア、アエギュプトゥスを支配して領土を拡大したパルミラは、さらにカッパドキアのアンキュラ(現、アンカラ)も占領し[128]、アナトリア(小アジア)にまで進出した[129]。しかし、272年初頭に皇帝アウレリアヌスがパルミラ制圧に乗り出すと、プロブスにアエギュプトゥスへの遠征を命じるとともに、皇帝自らもアナトリアに親征し、諸都市をほとんど無血奪還した。ゼノビアは、アンティオキア近郊のイマエの戦い(英語版)、さらにエメサの戦い(英語版)においても敗北すると、パルミラに退いて持久戦を試みるが、その後272年のうちに、遂にユーフラテス河畔で捕らえられ[130]、ローマに送られた[131]。虜囚となったゼノビアは、歴史家ゾシモス(英語版)の『ローマ史 (Historia Nova) [132]』によれば[133]、ローマに連行される途中で疾病あるいは絶食により亡くなったといわれるほか[134]、『ヒストリア・アウグスタ(ローマ皇帝群像)』では、274年、ローマで皇帝アウレリアヌスの凱旋式に引き立てられた後、近郊のティブル(現、ティヴォリ)に[135]ヴィラ(邸宅)を持つことを許されて豊かな余生を送ったとされる[136][137]。ロンギヌスらパルミラの高官は処刑された[138]。そして273年[135]、反乱を起こしたパルミラは破壊された[139]。

 ディオクレティアヌス城砦(英語版)と後方の山上にあるアラブ城(英語版)(ファフル・エル=ディン・エル=マアニ城、カラート・イブン・マーン)

ローマ帝国は、以後パルミラをローマ軍の基地に変えた。皇帝ディオクレティアヌス(在位284-305年[140])の時代、297年(298年[141])にはサーサーン朝のナルセ1世(在位293-302年[142])とニシビス(現、ヌサイビン(英語版))で結んだ平和条約により、国境をユーフラテス川支流のハブール川と定められたが[143]、ペルシアの侵攻に備えてさらに多くの部隊が駐留できるように[137]、城砦(軍営地)として一部規模を拡大し、城壁で囲んだ[144]。

東ローマ帝国時代

東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の時代、5世紀頃になるとベル神殿[145]、それにバールシャミン神殿(英語版)はキリスト教会に転用され[146]、また、バールシャミン神殿の西約150メートルの場所には、その5-6世紀頃に[147]資材を再利用して建設された2つのキリスト教会の跡がある[146]。5世紀末から6世紀にかけて東ローマ帝国と同盟関係を持ったガッサーン族(英語版)(ガッサーン朝〈ジャフナ朝、Jafnids〉)のアラブ系王朝が[148]、5-6世紀、シリア砂漠を支配していた[143]。その宮廷アラビア詩人ナービガ(英語版)(アル=ナービガー=アル=ドビアーニ)は、ジン(神霊)がパルミラ(タドモル)を建設したと伝えたことにより[149]、後の1348年初頭にイブン・バットゥータがバグダードからダマスカスに向かう途中パルミラを訪れた際、ジンが築いたというナービガの詩を引用している[150][151]。皇帝ユスティニアヌス1世(在位527-565年[152])の時代にはパルミラの周壁(英語版)が補強されている[143]。

イスラム帝国時代

634年、最初のムスリム(イスラム教徒)がパルミラにたどり着き、ハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム帝国の初代カリフ、アブー・バクル(在位632-634年[153])の正統カリフ軍(英: Rashidun army)がパルミラを占領し、アラブ人イスラム教徒が支配する町となった。パルミラは、ウマイヤ朝(661-750年)のカリフのヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク(在位724-743年[154])が統轄したアル=ハイル・アル=ガルビ城(英語版)(カスル・アル=ハイル・アル=ガルビ〈パルミラ西南63km〉[155])とアル=ハイル・アル=シャルキ城(英語版)(カスル・アル=ハイル・アル=シャルキ〈パルミラ東北105km〉[156])の間に位置し、それら2か所の城塞ともパルミラ繁栄時代の灌漑設備を再利用したこともあり、パルミラは軍事および経済における要衝となった[157]。ウマイヤ朝最後の第14代カリフ、マルワーン2世(在位744-750年[158])の時代[159]、745年にパルミラで惹起した反乱を鎮圧するとともに[143]、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代の周壁を撤去している[157]。しかし、アッバース朝(750-1258年)の時代になるとパルミラはカリフから無視され[157]、1089年の大地震で被害を受けた後、パルミラはほぼ完全に放棄された[160]。

パルミラは、12世紀にダマスカスを支配したブーリー朝(1104-1154年[161])、12-13世紀のアイユーブ朝(1171-1250年[162])、13-16世紀のマムルーク朝(1250-1517年[163])において重視されるようになると、ベル神殿は要塞化されるとともに、本殿はイスラム教のモスクに転用された[157]。また、シリア砂漠を抑えるための拠点となるオアシスの重要性はこの時代も変わらず、パルミラ遺跡の西側の山上にあってオアシスを見下ろす大きな城塞(アラブ城(英語版))の当初の基礎は、ホムスの領主による1230年にさかのぼり[164]、マムルーク朝の陶器も認められている[157]。14世紀前半の歴史家で高級官吏であったイブン・ファドル・アッラー・ウマリー(英語版)は[165]、当時のパルミラの盛んな商業活動や邸宅・庭園について記している[157]。その後、モンゴル(ティムール朝)のティムール(在位1370-1405年[166][167])がシリアに侵入し[168]、1400年にアレッポを占領した後[169]、1401年に支隊をパルミラに侵攻させた[170]。

オスマン帝国時代

16世紀の1516年(第二次マムルーク・オスマン戦争[171])よりオスマン帝国時代となる[172]。17世紀初頭には、オスマン帝国のドゥルーズ派で、レバノン山脈からシリア砂漠まで領有したマーン家(英語版)の領主ファフル・アッディーン2世(英語版)が、パルミラ遺跡西側の高さ(比高)約150メートルの山上にある城塞、アラブ城(英語版)(ファフル・エル=ディン・エル=マアニ城[173]、カラート・イブン・マーン[164])を拡充したといわれる[174]。しかし、この時代にパルミラは急速に衰退し、ベル神殿の境内を中心とした小集落となり、その後、跡地は1928年まで遊牧民族の使用する場所でしかなかった[175]。

再発見  1693年のパルミラ遺跡の描画(G・ホフステッド(オランダ語版)

17世紀初頭、イタリア人、フランス人がそれぞれパルミラを訪れている。その後、1678年にイギリスの商人がアレッポからパルミラ訪問を試みるもベドウィンに捕らえられるなどして逃げ帰った後、1691年になって遂にパルミラ遠征が果たされた。この2度目の遠征に参加した牧師W・ハリファクス (William Halifax) は、1695-1697年に碑文の写しや旅行記を王立学会の『哲学紀要』に発表した。当時、ベル神殿の境内には粗末な住居があって30-40家族が暮らしていたという[176]。また、同じく遠征隊に参加したオランダ人のG・ホフステッド(オランダ語版)により、パルミラの詳細な油彩画が描かれた[177][178]。1696年には、アベデネゴ・セラー(英語版)による古代パルミラについての著作が出版されている[179]。1710年にスウェーデン(バルト帝国)の王カール12世(在位1697-1718年[180])に派遣されたC・ルース (Cornelius Loos) は、シリア、パレスチナ、エジプトに遺跡を描くために赴き、パルミラを訪れた際に遺構を描画し[181]、1711年[182]、報告書とともにカール12世に提出している[183]。

 バールシャミン神殿(英語版)(中央左)の描画(ロバート・ウッド(英語版)『パルミラの遺跡』1753年)

1751年、ロバート・ウッド(英語版)ジェームズ・ドーキンス(英語版)の指揮するイギリス(グレートブリテン王国)の探検隊がパルミラ遺跡を訪れ、1753年にはウッドによる学術的な著書が出版された[184][185]。この『パルミラの遺跡 (The Ruins of Palmyra) 』は[186][187]、ローマ建築の研究およびその後のヨーロッパの古典主義建築の発展に大きな影響を与えた。1754年にはパルミラ文字が、フランス人のジャン=ジャック・バルテルミー、イギリス人のジョン・スウィントン(英語版)によってそれぞれ解読された[182]。その後、オスマン帝国への使節団の3年間の遠征に同行したルイ・フランソワ・カサス(英語版)が、1785年にパルミラを訪れた際、広範な遺跡の記録・描画を作成して1799-1800年に出版している[188]。

1853年にメルシオール・ド・ヴォギュエ(英語版)[189]、1861年にはウィリアム・H・ワディントン(英語版)がパルミラ語碑文の写しを数多く持ち帰り[190]、解読に関する問題をほぼ解決した[182]。そして1881年、ロシア人(ロシア領アルメニア[191])の旅行家アバメレク=ラザレフ(英語版)が、パルミラのアゴラ(取引場)の近隣で[192]、長大な関税法の碑文を発見した[183]。この石灰岩4枚におよぶ関税法碑は、全幅4.80メートル、最高部1.75メートルで、パルミラ語とギリシア語がほぼ対訳して記されており、当時のパルミラを知る非常に貴重な碑文であった[193]。A=ラザレフは、ヴォギュエの協力のもとロシア語の著書『パルミラ』(1884年)を出版した[194]。パルミラ関税法碑は、1901年、オスマン帝国より発見者のA=ラザレフに譲渡され、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に移送・保管された[195]。1902年、パルミラの発掘調査がドイツ人(プロイセン王国)考古学者オットー・プッフシュタイン(英語版)により始まり、第一次世界大戦時(1914-1918年)の1917年にテオドール・ウィーガンド(英語版)ならびにプッフシュタインらにより再度なされた[196]。

フランス委任統治以降  20世紀初頭(1900-1920年)の神殿内の集落の一角[197]

第一次世界大戦の敗戦によるオスマン帝国の解体後[198]、これまでほぼ個人によってなされていたパルミラの調査・研究が、フランス委任統治当局のもと[199]、1925年より組織的にパルミラ遺跡の発掘調査が行なわれるとともに修復・補強が開始された[200]。1929年にベル神殿の発掘がされるようになると[143]、廃墟を埋めるように占拠していた集落の居住者に代替地を提供し[201]、1932年までの3年間のうちに家屋をほぼ完全に撤去して移住させた[202]。この代替地が、遺跡の北東に隣接するタドモル(パルミラ)の町の始まりである[203][201]。

1946年にシリア共和国の独立、1961年にシリア・アラブ共和国として再独立した後、1963年になるとパルミラ(タドモル)北近郊に井戸が掘られて水道が整備され、飲料水が確保された。リン酸塩の産出とともに、パルミラの灌漑緑地からはナツメヤシのほか、1977年にはオリーブの実2500トンが輸出され、パルミラ周辺の農園から小麦・大麦3000トン、綿花500トンが産出された。同じく1977年には遺跡を訪れる観光客のためのホテルや博物館(1961年8月6日開館[204])を擁する観光の町として、3万3000人が宿泊し、1万人が博物館を訪れ[205]、1980年には「パルミラの遺跡」としてユネスコの世界文化遺産に登録された[206]。1950年代の町の人口は数千人であったが[207]、1982年には約3万人となった[208]。

21世紀  パルミラ遺跡に隣接したタドモル(英語版)市街(2010年)

2010年には、主に観光の発展によって人口は6-7万人になっていた[209]。しかし、アラブの春に始まる大規模な反政府民主化運動の騒乱がシリアにおよんだ2011年3月以降、紛争・武力衝突による被害を受けて[210]、2013年6月20日にシリアの世界遺産のすべてが危機遺産に指定された[211]。ユネスコは2014年3月より「シリア文化遺産緊急保護プロジェクト」を開始したが[212]、その後、パルミラは戦闘状態に陥り、町は廃墟と化した[213]。

ISILによる破壊

2014年6月よりシリア内戦に乗じてカリフ制によるイスラム過激派組織ISIL (IS) が参戦し[214]、2015年5月にホムス県東部に侵攻してシリア軍を撃破し[215]、5月20日に[216]パルミラを制圧。遺跡も同組織の支配下に置かれた[217]。そして6月27日、パルミラ博物館にあったアラート神殿のライオン像(英語版)が破壊された[218](2017年に修復後、ダマスカス国立博物館(英語版)に展示[219])。7月には遺跡の保護に携わっていた専門家ハレド・アサドがISILに拘束され、翌8月に[220]斬首・処刑された[221][222]。ハレド・アサドは、遺跡に眠ると噂されていた金塊捜索への協力を拒否したため殺害されたといわれる[223][224]。そして8月23日にバールシャミン神殿(英語版)[225][226]、8月30日に[227]ベル神殿を相次いで破壊した[228][229]。9月初頭にはエラベールの塔墓を含む塔墓の破壊が確認された[230]。衛星画像によれば、塔墓は8月27日から9月2日までにエラベールの塔墓のほか3基(71号塔墓、Julius Aurelius Bolma の塔墓、Kithoth Tomasu の塔墓)が破壊され、それ以前の6月26日から8月27日の間にも3基(Banai 家の塔墓、ヤンブリク〈イアムリク[231]、Iamliku〉の塔墓、アテナタン〈Atenaten〉の塔墓)の破壊が認められた[232]。さらに10月4日には記念門(英語版)(凱旋門)が爆破された[233]。

ロシア空軍による航空支援を得てシリア軍が交戦していたが[164]、2016年3月25日[234]、シリア国営テレビ(英語版)は、ISILからパルミラ全域を奪還したと報じた[235][236]。しかし、ISILが敗走する前に、アラブ城(英語版)に甚大な被害を与えていたことが確認された[237][238]。奪還直後の3月のうちにシリア文化財博物館総局(英語版) (DGAM)[239] によりパルミラ博物館の安定化措置が講じられ[240]、翌4月4日には、ポーランドや[241]フランスの専門家らとともに[242]パルミラの被災状況の調査と修復・移送を開始した[243][244]。また、ユネスコの提案に同調してシリア文化財博物館総局は、パルミラ遺跡および博物館の状況の記録と損害の程度の査定ならびに被害に対する安定化を実施していった[245]。

2016年5月5日には、ロシア軍の支援によるパルミラ奪還を記念し、ISILの占拠時に処刑場とされたパルミラのローマ劇場(英語版)において、ロシアの指揮者ヴァレリー・ゲルギエフによるサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場管弦楽団の演奏会が開催された[246]。しかし、シリア内戦が継続するうちに[247]、同年12月11日、パルミラはISILに再び制圧された[248][249]。そして2017年1月、ローマ劇場の正面部分、それに四面門の大半が爆破された[250][251]。

2017年3月2日、国営シリア・アラブ通信社(英語版) (SANA) は、シリア軍がISILから再びパルミラ全域を奪還したことを報じた[252]。直ちに文化財博物館総局によって遺跡の被害が調査され、新たに破壊されたローマ劇場と四面門以外、被害は比較的軽微であることが確認された[253]。その後、シリアの文化財博物館総局らが、日本など国内外の機関・団体と連携し、専門家の協力を得ながら破壊された彫像の修復ならびに遺跡の調査・修復を図っている[223][254]。

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