哈尔滨市

( ハルビン市 )

ハルビン市(哈爾浜市、ハルビンし、ハルピンし、繁体字中国語: 哈爾濱市、簡体字中国語: 哈尔滨市、拼音: Hā'ěrbīn、満洲語: ᡥᠠᡵᠪᡳᠨ
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、満洲語転写:harbin hoton、英語: Harbin、ロシア語: Харбин)は、中華人民共和国黒竜江省に位置する副省級市。黒竜江省人民政府の所在地であり、黒竜江省の政治・経済の中心である。2019年時点での市区人口は約709.3万人の大都市である。市域全体の人口は約1076.3万人。

漢晋代には夫余、隋代には靺鞨、唐代には渤海鄚頡府の地とされていた。遼朝が成立すると東京道完顔部の支配地となり、やがて完顔部の首領であった阿骨打により金朝が建国されると上京会寧府の管轄とされ、阿城区には金朝の都城であった上京会寧府の遺跡が残る。

元代になると遼陽行省開元路が、明代には奴児干都司、清初にはニングタ将軍の、後にアルチュカ(alcuka、阿勒楚喀)副都統の管轄とされたが、開発が制限されたため当時は森林地帯を形成していた。本格的な開発が着手されたのは光緒初年に民官が設置された後である。松花江を境界として南に吉林将軍の管轄である賓州、双城庁を設置、北側を黒竜江将軍の管轄であるフラン(hūlan、呼蘭)副都統の管轄とされた。

1896年の露清密約により満洲における権益を増大させたロシア帝国により、1898年(光緒24年)、満洲を横断する東清鉄道建設が着手されると、ハルビンは交通の要衝としてロシア人を初めとする人口が急激に増加し経済の発展をみるようになった。ロシア風の建造物が次々と建設され、ハルピンの市街地が形成される。北清事変で一度焼失するが1901年より再建され、ロシアの進出は郊外の原野にも及んだ。1900年には人口1000人だった小さな漁村が1903年には30万人の都市になった[1]。

1904年に日露戦争が始まり、1905年9月の日露講和条約により、日本がロシアから東清鉄道と南部鉄道線の経営権を取得した。これに伴い、ハルビンにも日本領事館が設置され、日本人の居住を合法的に認める開放地のひとつになった。1905年(光緒31年)10月31日、清朝は哈爾関道(浜江関道を設置)、翌年5月11日には正式に道署を設置し現在の浜江城(現在の道外区)に駐在するようになった。

 ロシア様式の教会。1908年竣工。文化大革命時に壊され放置されていたが2017年に復元された

1907年1月14日、清朝はハルビンを対外交易拠点とすることを決定、吉林将軍及び黒竜江将軍の奏准を容れ浜江庁を設置、浜江関道の管轄とされ行政権の強化が図られた。これに対しロシアは同年11月23日に中東鉄道管理局による『ハルビン自治公議会章程』を発布、埠頭区(現在の道裏区)、新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定め公議会の管轄とし、清朝に対抗した。

 チューリン百貨店

1909年10月26日、ハルビン駅頭で日本の枢密院議長伊藤博文が安重根に暗殺されている。同年、極東最大と言われたロシア系の「チューリン百貨店」が大直街に開店した(キタイスカヤ街店は1919年)。1908年にロシアが極東における自由貿易港廃止を決定し外国商品に高い関税を課すと、ウラジオストックからハルビンへ拠点を移す企業が現れ始めた[2]。

中華民国が成立すると1913年3月に浜江庁は浜江県と改称され、翌年1月31日には松北市政局に改編された。1916年のハルビンの人口約9万人が1918年には16万、1921年には35万に増大した[3]。ロシア人と中国人が大多数を占め、日本人は1916年の約700人が21年には4000人近くになった[3]。

更に1921年2月5日にはハルビン市政管理局、1923年3月1日に東省特別区行政長長官公署が正式に成立すると公署がハルビン埠頭区に設置され、現在の政治的な地位の基礎が築かれた。1926年3月30日に東省特別区市政管理局はハルビン市公議会を廃止、ハルビン自治臨時委員会が設置され、ロシア人による統治が終焉した。同年6月17日には『ハルビン特別市自治試弁章程』を施行し、埠頭区、新市街をハルビン特別市管轄区域とし、それ以外の馬家溝、老哈爾浜(現在の香坊区)、新安埠、八区、顧郷、正陽河等の地域を東省特別区市政管理局の管轄とした。経済面では、1920年代にはハルビンでも中国人による起業が増え、1929年の世界恐慌や中ソ紛争の影響で、満洲のロシア系ビジネスは大きな打撃を受け、ハルビンでもロシア系資本の一部は閉鎖を余儀なくされ、中国人への売却や外国資本との合弁が行われた[2]。

満洲事変が勃発、満洲国が建国されると、1933年7月1日にハルビン特別市が成立し、東省特別区市政管理局の管轄とされた。日本からのハルビンへの直接投資は伸び悩んだものの、在住邦人も増え、日本製品が普及し、1934年の時点でハルビンではロシア系企業の取扱商品の80~85%、中国人企業の取扱商品の40~50%が日本製であった[2]。1935年に中東鉄道(東清鉄道の別称)が満洲国に売却されるとハルビンのロシア系ビジネスは縮小し、1939年には企業数は圧倒的に多いものの総売上額ではデンマークや英国より少なくなかった[2]。

その後1937年7月1日に浜江省管轄の普通市に改編されるなどの行政改編が行われながらも満洲地区からロシア・ヨーロッパ方面への鉄道輸送の要衝として発展し、1940年に実施された国勢調査では人口60.55万人に達している。

満洲国は敗戦により日本という後ろ盾を失った。それゆえソ連が満洲に侵攻したため満洲国は崩壊し、国共内戦の結果、ソ連を後ろ盾とした中国共産党が1946年4月28日にハルビンの支配権を獲得すると直ちにハルビン特別市政府を設立、1948年4月21日には省轄市に改称し松江省省政府が設置された。1954年6月19日の松江省と黒竜江省の合併により黒龍江省に移管され、省人民政府が設置され現在に至っている。

その他

ロシア革命後、ソ連も中東鉄道(東清鉄道の後身)の利権を維持し、満洲国に譲渡したのは1934年のことだった。

^ 戦前の日本における対ユダヤ人政策の転回点阿部吉雄、九州大学大学院言語文化研究院、言語文化論究. 16, pp.1-13, 2002-07-12 ^ a b c d 満洲国における各国企業の共存関係―ロシア企業の生き残り戦略を中心に 藤原克美、大阪大学、2012 ^ a b 人口『哈爾賓案内』 (哈爾賓商品陳列館, 1922)
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