バレッタ(Valletta)は、マルタ共和国の首都。ヴァレッタとも表記される。マルタ語ではイル・ベルトIl-Belt 「都市」の意味)と呼ばれる。人口は5,730人(2016年)。マルタ島東部に位置し、港を見下ろすシベラスの丘の上にある。ホスピタル騎士団 (Knights Hospitaller) の時代以降の多くの建造物が残る。一部の地域では、バロック建築・マニエリスム建築・近代建築・新古典主義建築など多様な建築様式も見られる。第二次世界大戦では戦禍に巻き込まれ、多くの歴史的建造物が被害を受けた。1980年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

 バレッタの街並み

バレッタの礎石は、1566年3月28日に聖ヨハネ騎士団総長ジャン・ド・ヴァレットの手で、勝利の聖母に捧げられた勝利の聖母教会に置かれた。1565年のマルタ大包囲戦が終わってすぐ後に、騎士団はシベラス半島上に新都市建設を決めた。マルタにおいて騎士団の存在が磐石になるよう、効果的に騎士団の島内での本拠地が選ばれた。計画都市として都市設計は、フランチェスコ・ラパレッリが行い、最も重要とされる建物の多くはジェローラモ・カッサールが建設した。従って、バレッタには16世紀以降に建てられた建物が多い。 バレッタの都市計画はマルタ諸島では斬新なもので、不規則に曲がりくねった通りと小路のある自治体が多い中で、バレッタは格子状の街区に設計された。バレッタには排他的な制限区域も何ら設けられなかった。市門から始まる通りは広く真っ直ぐで聖エルモ砦に至る。47mの高さの砲台も建てられた。

ヴァレットは都市の完成を見届けることなく1568年8月21日に74歳で死に、勝利の聖母教会に埋葬されたがのちに聖ヨハネ准司教座聖堂が建つとそこへ移葬された。ヴァレットの墓は今、他の総長らの墓に囲まれている。

騎士団が島から追放され、フランスの短い支配を受けた後、イギリスの支配となりバレッタでは都市の再建が始まった。市門は拡大され、建物は解体や再建が進み、家は増築され公共の施設も設けられた。しかし第二次世界大戦中のナチス・ドイツやイタリア軍の空襲で多くは損傷した。19世紀にバレッタの市の入り口として建てられた壮麗なロイヤル・オペラ・ハウス(英語版)も失われた。

1980年には第24回チェス・オリンピアードを開催した。

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