Tour Eiffel

( エッフェル塔 )

エッフェル塔(エッフェルとう、仏: La tour Eiffel、英: Eiffel Tower)は、フランスの首都・パリの象徴的な名所となっている塔である。パリ7区、シャン・ド・マルス公園の北西に位置する。パリ万国博覧会に際して建設され、名称は設計および建設者であるギュスターヴ・エッフェルに由来する。

高層建築ブーム

19世紀後半、建築技術の進歩や新素材の開発、産業革命による工業力の増加や総体としての富の増大によって、先進各国において相次いで高層建築が建設され、国家の威信をかけて高さ競争が繰り広げられていた。1647年から200年以上にわたって世界で最も高い建築物は同じフランスのストラスブールにあるストラスブール大聖堂(高さ142m)であったが、1874年にはドイツ帝国のハンブルクに建てられた聖ニコライ教会が147mとなって取って代わり、それ以降、この地位は数年ごとに交代を繰り返すようになった。1876年にはフランス・ルーアンのルーアン大聖堂が151m、1880年にはドイツ帝国ケルンのケルン大聖堂が完成して157mとなった。ここまでの高さ競争は全てキリスト教会の尖塔であったが、1884年にはアメリカ合衆国ワシントンD.C.に高さ169mのワシントン記念塔が完成し、これが世界で最も高い建造物となっていた。しかしいずれの建造物も高さは140mから160m台にすぎなかった。

コンペティション開催

1889年のフランス革命100周年を記念してパリで第4回万国博覧会が開催されることが1884年に決定したものの、当初はそれほど目玉となるプランがあるわけではなかった。そうしたなか、橋梁建設、特に鉄橋において高い評価を得ていた建設会社エッフェル社の技師であるモーリス・ケクランとエミール・ヌーギエは1884年5月に、高さ300mの鉄の塔を建てて万博のシンボルとする案を立てた。この案に同じく社員であるステファン・ソーヴェストルが修正を加え、現在みられるエッフェル塔とほぼ同じ計画案を作成した。この案は社長であるギュスターヴ・エッフェルの賛同と強力な支援を受け、各方面に売り込みが行われた[1]。先行する160m級建築物群を大きく超える高さとなるが、基礎となる技術は、エッフェルが手掛けたポルトガルのマリア・ピア橋(1877年完成)、フランス国内のガラビ高架橋(1884年完成)、アメリカ合衆国ニューヨーク市の「自由の女神像」(1886年完成)を内部で支える鉄製支柱で実証されていた[2]。

1886年、万博の目玉となる大建造物を選定するためのコンペティションが開かれると、エッフェルはソーヴェストルおよびケクランと連名で計画案を提出した。1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴェストル、ケクランらの設計図であった。エッフェルらの案は満場一致で採択され[3]、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に充分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。

建設候補地となったのはセーヌ川を挟んだシャン・ド・マルスとトロカデロの2つの地区であったが、トロカデロは地下に空洞があったために地盤が不安視され、シャン・ド・マルスへの建設が決まった。7月には仮契約が締結され、1889年3月31日を工期の期限とすること、20年後の1909年には塔をパリ市に引き渡すこと、および工期中に政府からの補助金150万フランが交付されることとなった。これは予想される総工費650万フランの4分の1以下にすぎず、残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった[4]。1887年1月8日には本契約が締結された。エッフェル塔の入場料は上記契約により1909年まではエッフェル自身の収入となり、これによってエッフェル塔の建設費を返済していくこととなった。彼はその後、エッフェル塔を管理するための新会社を設立し、資本金の半分を自ら拠出した[5]。

建設

1887年1月28日に起工式が行われ、エッフェル塔建設が開始された[6]。まず基礎工事が開始され、潜函工法によって6月11日には基礎が完成した。ついで4本の脚から塔本体の建設が始まり、1888年3月には1階の展望台が完成して4本の脚がつながった[7]。同年8月14日には2階展望台が完成し[8]、1889年2月24日には3階展望台の工事が着工[9]。1889年3月30日には竣工した[10]。3月31日には首相ピエール・ティラールらを招いて竣工式が行われた[11]。竣工式でエッフェルは自らの手で先端にフランス国旗を掲げ、「300メートルの旗竿に国旗を掲げる唯一の国」と語った[2]。

建設は万博に間に合わせるため2年2カ月5日という驚異的な速さで完成した[2][12]。5300枚のデッサンを描いて、1万8000の部品を工場で生産して送り出し、常時150~300人が現場で組み立てるプレハブ工法を採用した[2]。またエッフェルは熟練作業員による少数精鋭主義をとるとともに工事中の安全対策には特に注意を払い、工事期間中の死者は1人にとどまった[13]。総工費は650万フランであった[14]。

塔の建設(1887年) 
塔の建設(1887年)
塔の建設(1888年) 
塔の建設(1888年)
エッフェル塔(1889年) 
エッフェル塔(1889年)
1889年万博当時のエッフェル塔エレベーター 
1889年万博当時のエッフェル塔エレベーター
当時の評価

後世では「鉄の貴婦人(La Dame de fer)」と称えられる[2]エッフェル塔であるが、建設当時としては奇抜な外見のため、賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している[15]。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが[16]、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔が嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。

 エッフェル塔とラ・デファンスの超高層ビル街パリ万博

1889年5月6日に開幕したパリ万博においてエッフェル塔は目玉となり、パリのみならず世界中から観光客が押し寄せた。ただし開幕時にはいまだエレベーターが完成しておらず、エッフェルがエレベーターなしでの一般公開に反対したこともあって、観光客の入場はできなかった[17]。エレベーター自体は5月15日に完成したものの、テストが必要なためしばらく商業運行は不可能だった。しかし来場者や市民からの不満の声が高まったため、同日エッフェルは塔の一般公開に踏み切り、観光客は階段で展望台へと向かった[18]。エレベーター運行までの9日間にエッフェル塔に入場し、1,710段の階段を昇った入場客の数は約30,000人にのぼった[19]。エレベーターは5月26日に運行を開始した[20]。エレベーター料金は1階までが2フラン、2階までが3フラン、最上階までが5フラン、日曜日は半額となっていた[21]。

展望台の上にある塔の最上階には来客用のサロンを備えたエッフェルの小さな私室が設けられた。この私室は現在では一般公開されており、当時の内装がそのまま保存され、またエッフェルおよび著名なゲストたちを模したマネキン人形が展示されている[22]。私室の隣には、様々な実験を行うための研究室も設けられた。この研究室においては、気象観測や空気抵抗の実験などが行われていた[23]。

万博の会期中には、2階に『フィガロ』紙の編集室と印刷機が設けられ、毎日『Le Figaro de la Tour(フィガロ・エッフェル塔版)』を発行していた[20]。会期中にエッフェル塔を訪れた著名人としては、イギリス皇太子であるエドワード王子や、大女優サラ・ベルナール、バッファロー・ビル(彼の『ワイルド・ウェスト・ショー』は博覧会の目玉の一つだった)、トーマス・エジソンなどがいた[19]。エッフェルはエジソンを塔最上階の私室に招き、エジソンは彼の発明した蓄音機をエッフェルへと贈った。これはこの博覧会におけるハイライトの一つだった[24]。塔の1階にはフランス料理、フランドル料理、ロシア料理の3軒のレストランおよびアングロ・アメリカン・バーが設けられていた。

エッフェル塔は大盛況となり、11月8日の博覧会終了までの入場者数は1,896,987人[25]、1889年の入場者数は200万人を記録した[26]。

万博終了後  皇太子裕仁親王の欧州訪問時のエッフェル塔観覧(1921年)

万博終了後、エッフェル塔の来訪者は減少していったが、なおも年間10万から20万人台の入場者数は保っていた。1900年に再度パリで万国博覧会が開催されることが決定すると、エッフェル塔は再び万博のパビリオンとして多くの観光客を集めたが、その後の入場者数は低迷を続けた。こうしたことから、塔の権利がパリ市に移る1909年には解体されることが確実視されていた。しかし1904年、フランス軍で通信を担当していたギュスターヴ・フェリエが軍事用の無線電波をエッフェル塔で送受信することを提案し、そのため国防上重要な建築物ということで、取り壊しを免れることとなった。この電波塔としての役割は非常に重要なもので、現代に至るまでエッフェル塔の主目的の一つとなっている。

第一次世界大戦が始まると、エッフェル塔の入場は1915年から1919年まで中止された。大戦中には塔からジャミングを出して、ドイツ帝国軍を悩ませた。1919年に大戦が終わると入場は再開され、1921年にはエッフェル塔からラジオ放送が開始された。1925年にはシトロエンがエッフェル塔に巨大な照明看板を出し、1936年までの11年間この広告は続いた[27]。1930年にはアメリカのニューヨークでクライスラー・ビルディングが完成し、エッフェル塔は世界一高い建造物の地位を失った[28]。第二次世界大戦が始まり、1940年にパリがナチス・ドイツによって占領されるとエッフェル塔も閉鎖された。パリの解放(1944年)後、塔は入場を再開した。2002年11月28日にはエッフェル塔の通算入場者数が2億人に達した[29]。

2011年12月に日刊紙『フィガロ』で、建築家グループが期間限定で塔を樹木で覆う緑化計画を立てていると報道されたが、パリ市や塔運営会社は否定している[30]。

^ ケネス・パウエル編、井上廣美訳『世界の建築家図鑑』(原書房ヴィジュアル歴史人物シリーズ、2012年10月15日第1刷)pp.143-144 ^ a b c d e 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「日経20220417」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 12. ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 39-40. ^ Loyrette, p.121. ^ SETE. “Origins and construction of the Eiffel Tower”. Official Eiffel Tower website. 2015年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月1日閲覧。 ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 51. ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 37. ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 58. ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 64. ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 65. ^ ジョン・バクスター『二度目のパリ 歴史歩き』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年、87頁。ISBN 978-4-7993-1314-5。  ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 57. ^ 『国民百科事典1』(平凡社、1961年2月1日初版発行)p.423 ^ アンドレ・ヴァルノ著、北澤真木訳『パリ風俗史』(講談社、1999年11月10日第1刷)pp.331-332 ^ Jonnes, Jill (2009). Eiffel's Tower: And the World's Fair Where Buffalo Bill Beguiled Paris, the Artists Quarreled, and Thomas Edison Became a Count. Viking Adult. pp. 163–64. ISBN 978-0670020607  ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 82. ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 85. ^ a b SETE. “The Eiffel Tower during the 1889 Exposition Universelle”. Official Eiffel Tower website. 2016年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月16日閲覧。 ^ a b 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 86. ^ Harvie, pp. 144–45. ^ Caitlin Morton (2015年5月31日). “There is a secret apartment at the top of the Eiffel Tower”. Architectural Digest. Conde Nast. 2015年6月30日閲覧。 ^ Watson, p.829. ^ Jill Jonnes. “Thomas Edison at the Eiffel Tower”. Wonders and Marvels. 2014年1月2日閲覧。 ^ SETE. “The Eiffel Tower at a glance”. Official Eiffel Tower website. 2016年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月15日閲覧。 ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 102. ^ 『エッフェル塔ものがたり』 1983, p. 124. ^ Claudia Roth Pierpont (2002年11月18日). “The Silver Spire: How two men's dreams changed the skyline of New York”. The New Yorker. オリジナルの2012年2月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120227015047/http://www.jayebee.com/discoveries/criticism/silver_spire.htm  ^ “The Eiffel Tower”. France.com (2003年10月23日). 2016年4月16日閲覧。 ^ “【こぼれ話】エッフェル塔に‘緑化’計画?=仏紙報道、当局は否定”. 時事ドットコム (2011年12月2日). 2011年12月2日閲覧。[リンク切れ]
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