المغرب

モロッコ
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のコンテキスト モロッコ

モロッコ王国
ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ(ベルベル語)
المملكة المغربية(アラビア語)
国の標語:الله، الوطن، الملك(アラビア語)
ⴰⴽⵓⵛ, ⴰⵎⵓⵔ, ⴰⴳⵍⵍⵉⴷ(ベルベル語派)
(神、国、王)1
国歌:النشيد الوطني المغربي(アラビア語)
ⵉⵣⵍⵉ ⴰⵏⴰⵎⵓⵔ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ(ベルベル語派)
国王万歳
1 この標語は、憲法に明記された現国王の標語である。
2 モロッコ本土のみのデータ。
3 710,850 km2には、モロッコが主張する西サハラ全体が含まれる。

モロッコ王国(モロッコおうこく、アラビア語: ...続きを読む

モロッコ王国
ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ(ベルベル語)
المملكة المغربية(アラビア語)
国の標語:الله، الوطن، الملك(アラビア語)
ⴰⴽⵓⵛ, ⴰⵎⵓⵔ, ⴰⴳⵍⵍⵉⴷ(ベルベル語派)
(神、国、王)1
国歌:النشيد الوطني المغربي(アラビア語)
ⵉⵣⵍⵉ ⴰⵏⴰⵎⵓⵔ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ(ベルベル語派)
国王万歳
1 この標語は、憲法に明記された現国王の標語である。
2 モロッコ本土のみのデータ。
3 710,850 km2には、モロッコが主張する西サハラ全体が含まれる。

モロッコ王国(モロッコおうこく、アラビア語: المملكة المغربية‎、ベルベル語: ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制の国家である。東でアルジェリアと、南で西サハラ(紛争地域)と、北でスペインの飛地(セウタとメリリャ)と接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバトである。

南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による亡命政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7.5割を実効支配しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない(西サハラの法的地位を参照)。実効支配下を含めた面積は約604,107 km2(うち、西サハラ部分が190,100 km2)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査)。

地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。

詳細について モロッコ

基本情報
  • 通貨 モロッコ・ディルハム
  • 母国語表記 المغرب
  • 呼び出しコード +212
  • インターネットドメイン .ma
  • Mains voltage 220V/50Hz
  • Democracy index 5.04
Population, Area & Driving side
  • 人口 37076584
  • 領域 446550
  • 駆動側 right
履歴
  • アル=アンダルスのイスラーム化

    先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州のマウレタニア・ティンギタナとなった。

     
    マウレタニアの領域。

    ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。

    788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。

    しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレー(英語版)を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。

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    アル=アンダルスのイスラーム化

    先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州のマウレタニア・ティンギタナとなった。

     
    マウレタニアの領域。

    ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。

    788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。

    しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレー(英語版)を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。

    18世紀まで
     
    ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールの時代に造営されたクトゥビーヤ・モスク。
     
    ラス・ナーバス・デ・トローサの戦いの絵図。

    1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナーシルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。

    マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。

    マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。

    サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年にアルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。

    1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。

    フランス資本の定着まで

    続くスライマーン(英語版)は、鎖国政策を採った。しかし、1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦い(英語版)で敗れた。1856年にはイギリスと不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。

    1873年、新たなスルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン(英語版)が即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入するなど、軍事力を強化した。後継の息子(アブデルアジズ4世)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。

    1904年の英仏協商でモロッコを狙っていたイギリス・フランス両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得した。なお、これが1905年に英仏協商に反対していたドイツ帝国が、タンジール事件を起こした原因であった。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したものの、最終的にはドイツが妥協した。1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領にされ、仏西条約で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。

     
    フランス領モロッコ初代総督、ウベール・リヨテの写真。

    フランス領モロッコの初代総督には、ウベール・リヨテ将軍が就任した。将軍は政情不安なフェズから、ラバトへと遷都した。1913年にドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店が、ソシエテ・ジェネラルに売却された。1919年に北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。1920年にアブド・アルカリームが、スペイン領モロッコのリーフ地方で反乱を起こし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。

    1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が、反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスがヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。

    モロッコは1956年にフランスから独立した。スペインはセウタ、メリリャ、イフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王に即位し、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。

    外資と君主と実効支配
     
    ハサン2世。親西側政策の下モロッコを統治した。

    1961年にハサン皇太子が、父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法(英語版)が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国など西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカの失踪事件が、パリで起こった。1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。

    一方で、内政は安定しなかった。例えば、1971年7月に士官学校校長と士官らが、夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わった[1]。さらに翌1972年には、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル(英語版)将軍が、国王の搭乗していたボーイング727旅客機に対して撃墜未遂事件を起こした。これを受けてハサン2世は、ウフキル将軍とエリート幹部(英語版)の排除を行った(Years of Lead)。

    1958年のシントラ協定でタルファヤを、1969年のフェズ協定でシディイフニを回復した後、モロッコはスペインが支配する南部の残りの領土からの撤退を交渉した。1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。そして同年のマドリッド協定でサキアアルハムラとウエドエダハブ地域を獲得した[2]。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったものの、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言した。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したのに対して、モロッコは実効支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したものの、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題として残っている[3]。

    1992年に憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。同年から直接投資受入額が急伸した。2002年にペレヒル島危機(英語版)が起こり、スペインとの間で緊張が高まったものの、アメリカ合衆国の仲裁で戦争には至らなかった。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、自由主義的な改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2019年までプラス成長を続けている。

    世界金融危機が最も顕在化した2008年10月に、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した[注釈 1][4]。

    2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により、7月に憲法改正を実施した。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。

    2016年7月17日に、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を目指すと表明した[5][6]。2016年9月には加盟申請を行った旨を明らかにした[7]。そして2017年1月31日に、エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議で、アフリカ連合への再加入が承認された[8]。

    2018年5月1日に、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラ(レバノンのイスラム教シーア派組織)が、アルジェリア経由で支援を与えている事を理由に挙げた。なお、イランとは2009年~2014年にも断交していた[9]。

    2021年8月24日にアルジェリア政府は、カビリー地方の独立運動や国内の山火事にモロッコが関与しているとして、モロッコとの国交断絶を宣言した[10]。

    ^ 「モロッコ軍部クーデーター失敗 国王殺害企てる 宮殿襲い銃撃戦」『中國新聞』 1971年7月12日 5面 ^ “サハラ紛争”. 2018年9月10日閲覧。 ^ 西サハラ地域の危険情報【危険レベル継続】(内容の更新) 外務省 2021年09月21日 ^ 高崎春華 「EU広域経済圏の形成と金融FDI」 日本国際経済学会第70回全国大会 ^ “モロッコ、AUに復帰へ=西サハラ問題で30年前脱退” (html). 時事通信社. (2016年7月18日). http://www.jiji.com/jc/article?k=2016071800044&g=int 2016年7月24日閲覧。  ^ “アフリカ連合に復帰へ モロッコ国王が表明” (html). 産経新聞. (2016年7月18日). http://www.sankei.com/world/news/160718/wor1607180028-n1.html 2016年7月24日閲覧。  ^ “Morocco Asks to Re-join African Union After 4 Decades”. Voice of America. 2016年9月24日閲覧。 ^ モロッコの加盟承認=西サハラ問題で30年超対立-AU AFPBB News 2017年1月31日 ^ モロッコ、イランと断交『日本経済新聞』夕刊2018年5月2日掲載の共同通信配信記事。 ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「AFP20210825」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません


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