Αθήνα

( アテネ )

アテネ(現代ギリシア語: Αθήνα; Athína; [aˈθina] ( 音声ファイル); カサレヴサ: Ἀθῆναι, Athinai; 古代ギリシア語: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都で同国最大の都市である。

 
アテネのアクロポリス
 古代から近代までの変遷が収められた風景。アクロポリスの神殿と手前の円柱は古代を、丸屋根の教会は中世を、新古典様式の家々は近代を代表する。

現在のところ、アテネにおける最古の人類の痕跡は同市を象徴するアクロポリスの下部にあいた片岩地質(Athens Schist)の洞窟内から発見されたもので、時期は前6000年から前11000年と推定されている[1]。アテネでは少なくとも7000年間継続して定住が行われている[2][3]。前1400年にはこの地の集落はミケーネ文明における中心的地域の1つとなっており、アクロポリスはミケーネ市にとっての主要な砦であった。この砦の遺構は特徴的なキュクロプス式(英語版)の城壁に今でもうかがうことができる[4]。ミケーネやピュロスといったミケーネ文明の他の中心地と異なり、アテネが前1200年ごろ滅亡を被ったかどうかはわかっていない。東地中海全域を襲ったこの危機は、ミケーネ文明に関してはドリス人の侵略にその咎が帰せられることが多いが、アテネ人はドリス的要素の混ざらない純粋なイオニア人であることにこだわりつづけた。いずれにせよアテネも他の多くの集落同様に、以後150年ほど経済的停滞に沈んでいる。

鉄器時代に入ると、ケラメイコスの墓地をはじめとして多人数を収める墓地が少なからず設けられており、前900年以降アテネがギリシアにおける交易と繁栄の先進的中心地の1つとなっていたことがわかる[5]。アテネの先進的地位は、ギリシア世界の中心に位置したこと、アクロポリスの砦を擁し防衛に優れたこと、海上交通の便が良いことから享受できたと考えられる。特に第3の点はテバイやスパルタといった内陸の競合相手に対し天与の利点となった。

前6世紀にはギリシア世界に広まった不穏な社会情勢からソロンの改革に至り、この改革は結果的に前508年のクレイステネスによる民主政の導入を招来した。この時期以降アテネは大艦隊を保有する一大海軍力となり、ペルシアの支配に抗するイオニア諸都市を支援することとなる。その後に勃発したペルシアとの戦争では、アテネはスパルタとともにギリシア諸都市の連合を率いて戦い、ついにはペルシアを撃退している(前490年のマラトンの戦い・前480年のサラミス海戦の勝利が決定的となった)。とはいえ、最終的に勝利こそしたものの、レオニダス1世麾下のスパルタ兵が英雄的に敗北した際と[6]、ボイオティアとアッティカがともにペルシアの手に落ちた際との都合2度、アテネはペルシアによる占領と略奪を受けることを余儀なくされている。

 ペロポネソス戦争勃発直前のデロス同盟(前431年)。

ペルシア戦争後の数十年は、民主政アテネの黄金時代(en)として知られる。前5世紀のこの時代、アテネは古代ギリシア世界の先頭を走り、さまざまな文化的達成は以後の西洋文明の礎となった。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスといった劇作家、歴史家のヘロドトスとトゥキディデス、医師ヒポクラテス、哲学者ソクラテスがこの時期のアテネで活躍している。優れた指導者であったペリクレスは諸芸の振興と民主主義の庇護をこととしたが、この指導者のもとでアテネは野心的計画に乗り出し、パルテノン神殿をはじめとするアクロポリスの壮観と、デロス同盟を通じた帝国の樹立を見ることとなった。デロス同盟はもともとはペルシアへの抵抗を継続するギリシアの諸都市が相互に結んだ同盟関係というべきものであったが、ほどなくアテネの帝国的野望のための手段となった。このアテネの傲岸がもたらした緊張はペロポネソス戦争(前431年 - 前404年)の開戦を招き、宿敵スパルタに敗北したアテネはギリシアにおける覇権を失った。

前4世紀半ばには北方のギリシャ系国家であるマケドニア王国がアテネ周辺へも影響力を及ぼしはじめ、前338年にはピリッポス2世率いるマケドニア軍がアテネとテバイを中核とする都市同盟軍をカイロネイアの戦いで打ち破っている。この敗戦の結果アテネの独立には終止符が打たれることとなった。のち、ローマが地中海世界の覇権を握ると、アカデメイアに代表される市内の名高い学校のためアテネは自由都市の地位を与えられた。2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスは図書館、競技場、水道橋(現役)、寺院など宗教施設をいくつかと橋を建設したほか、ゼウス神殿完成のため予算をつけている。

古代末にはアテネも衰退していく。東ローマ帝国の下でもしばらくは学芸の中心であったが、6世紀後半になるとスラヴ人やアヴァール人の侵略を受けるようになり、529年にキリストの教え以外が禁じられるとアカデメイアも閉鎖に至った[7]。その後、9世紀から10世紀には回復を見、十字軍時代にはイタリアとの交易から利益を得てある程度繁栄する。1040年に東ローマ帝国に反乱を起こすも鎮圧され、1147年にはシチリア王国軍の略奪により大きな被害を受けている。第4回十字軍後の1205年にはアテネ公国が建国された。1458年アテネ公国はオスマン帝国に征服され、アテネは長い停滞の時代に入った。

ギリシア独立戦争を経てギリシア王国が成立すると、1834年にアテネはこの新生独立国の首都に選ばれている(なお近代ギリシア初の首都はナフプリオとされる)。アテネが同国の首都に選ばれたのは、主として歴史的栄光と国民感情を鑑みたものであり、この当時のアテネはアクロポリスの裾野を取り巻く小規模な町に過ぎなかった。初代国王オソン1世は建築家クレアンティス(en)とシャウベルト(en)の両人に命じて一国の首都にふさわしい都市計画をデザインさせている。

ギリシア初の近代都市は、アクロポリス、ケラメイコスの古代墓地、国王の新宮殿(現・国会議事堂)を頂点とする三角形としてデザインされ、古代から現在までの連続性を強調するものとなっている。この時代の国際標準であった新古典主義はまさに古代アテネをはじめとする古典古代に範をとるものだが、この新古典主義に基づき各国の建築家が主要公共施設の設計に腕を揮った。なお、新古典主義は西欧ではほどなく衰えるが、ギリシアでは「古代ギリシアの復興」という理念から1920年代まで新古典主義による建築が続いた[8]。1896年には近代オリンピックの第1回大会がアテネで開催されている。1920年代の希土戦争の際にはアナトリア半島から追い立てられた大量のギリシア難民がアテネになだれこみ人口がふくれあがった。もっとも、人口増大のピークは第2次大戦後の1950年代から1960年代にかけてであり、この時期に市域は拡大を続けた。

1980年代には、工場からの排ガス、かつてなく増えた自動車、人口過密による利用可能な空間の減少から、アテネは非常に深刻な課題に直面することとなった。1990年代の市当局による汚染対策事業とインフラの抜本的改善(自動車道(en)の建設・地下鉄の拡充・国際空港の新設)によって、汚染はかなり軽減されアテネは従来に比べずっと機能的な都市に生まれ変わった。2004年にはふたたび夏季オリンピックが開催される。2010年代初頭以降ギリシアは経済的な困難に見舞われており、その対策が今後の課題となっている。アテネ市を対象とするものとしては、アテネ近郊の経済特区設定[9] や、アテネメトロの路線拡張などのインフラ整備[10] が経済対策として検討されている。

 
アクロポリスに建つパルテノン神殿
略年表 前14世紀初頭 - このころにはミケーネ文明の主要都市となっていた。 前12世紀 - ミケーネ文明を含むエーゲ文明が滅亡。アテネも経済的に衰退する。 前9世紀 - 通商により栄える。 前6世紀前半 - 経済格差の拡大など従来の社会システムの行き詰まりからソロンによる改革が行われる。 前561年 - 貧民の支持を得て台頭したペイシストラトスが僭主として君臨する。 前510年 - ペイシストラトスの子で僭主のヒッピアスが追放される。 前508年 - クレイステネスにより民主政が導入される。 前498年 - イオニアの諸都市とともにペルシアの支配に抵抗するが敗れる(イオニアの反乱)。 前490年 - マラトンにおいてアテネを主力とするギリシア重装歩兵がペルシアを敗る(マラトンの戦い)。 前480年 - サラミス島近海においてテミストクレス率いるギリシア艦隊がペルシア艦隊を撃破(サラミスの海戦)。 前479年 - プラタイアにおいてギリシアがペルシアに圧勝(プラタイアの戦い)。ペルシア勢力がギリシアから一掃される。 前477年 - ペルシア再侵攻に備えて、アテネを盟主とする軍事同盟(デロス同盟)が結ばれる。 前5世紀半ば - このころ指導者ペリクレスのもとで全盛期を迎えるも、デロス同盟の私物化によりギリシア世界の緊張が高まる。 前431年 - スパルタを盟主とするペロポネソス同盟がアテネの覇権を危ぶんで宣戦、ペロポネソス戦争が勃発する。 前5世紀前半 - このころからいわゆる衆愚政治に陥る。 前404年 - アテネの降伏でペロポネソス戦争が終結。アテネはデロス同盟の盟主としての地位を失う。 前338年 - 北方に興ったマケドニア王国にカイロネイアで敗れる(カイロネイアの戦い)。戦後、マケドニアを盟主とするコリントス同盟に加わることとなり独立を失う。 前168年 - ローマがマケドニア王国を滅ぼす。以後ギリシアはローマの支配に服する。 紀元後からは文化都市としても衰退をはじめる。 395年 - ローマ帝国の東西分裂。なお、アテネは東ローマ帝国に属する。 6世紀後半 - スラヴ人やアヴァール人の侵略を受ける。 529年 - 皇帝ユスティニアヌス1世の異端排斥政策の一環としてアカデメイアが閉鎖される。 十字軍時代にはイタリアとの交易により繁栄する。 1205年 - 十字軍の騎士によりアテネ公国が建国される。 1453年 - 東ローマ帝国がオスマン帝国により滅ぼされる。 1456年 - アテネ公国もオスマン帝国により滅ぼされ、アテネはオスマン帝国に編入される。 1832年 - ギリシア独立戦争を経て、ギリシャ王国がオスマン帝国から独立する。 1834年 - ギリシャ王国の首都にアテネが選定される。 1896年 - 近代オリンピックの第1回大会が開かれる。 2004年 - 夏季オリンピック第28回大会が開催される。^ “v4.ethnos.gr – Οι πρώτοι... Αθηναίοι – τεχνες, πολιτισμος”. Ethnos.gr. 2010年1月25日閲覧。[リンク切れ] ^ S. Immerwahr, The Athenian Agora XIII: the Neolithic and Bronze Ages, Princeton 1971 ^ Tung, Anthony (2001). “The City the Gods Besieged”. Preserving the World's Great Cities: The Destruction and Renewal of the Historic Metropolis. New York: Three Rivers Press. p. 266. ISBN 0-609-80815-X  ^ Iakovides, S. 1962. 'E mykenaïke akropolis ton Athenon'. Athens. ^ Osborne, R. 1996, 2009. Greece in the Making 1200 – 479 BC. ^ “Nothing Less than Victory: Decisive Wars and the Lessons of History”. 2014年12月24日閲覧。 ^ 「医学の歴史」p99 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷 ^ 「ギリシア都市の歩き方」pp196-198 勝又俊雄 角川書店 平成12年9月5日発行 ^ Greece in talks on economic zones ft.com By Kerin Hope August 28, 2012 5:33 pm ^ Greece to Boost Growth With Infrastructure Projects wsj.com August 28, 2012, 11:33 a.m. ET
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